* 機 屋 の シ ゴ ト 。*
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まず、機屋は「はたや」と読みます。要するに反物をつくるシゴトなワケなんですが・・・

ウチの方の反物というのは、織った時に柄が出てくる様にする関係か、糸から反物になるまでの行程がすんごくあるんですよ。

糸を染めて織るだけでなく、糸を色々なカタチに何度も何度も巻き直したり・・・その行程の一つ一つにその道のエキスパートがいるわけで、それぞれ「マキヤ」(多分巻き屋)「紺屋」、「セイリヤ」(恐らく整理屋)などと呼ばれています。「機屋」というのは、そういった方々をまとめて反物をつくる、いわばコーディネイトみたいな事をするワケです。

ウチの例で行くと、まず、父が「ガラカキ」(柄描き)といって、3ミリ方眼紙に反物の柄のデザインします。反物の柄というのは、色々難しいルールが沢山あって、こことここが線対称にならなければいけないとか、点対称にならなければダメとか、結構難しいんです。だからデザインというよりは設計に近い作業だと思います。父は3ミリ方眼に向かいながらよく計算尺で計算しながら描いて(書いて)ました。

それで、糸を染めてもらいに「紺屋」さんへ行ったり糸を何度もまき直してもらう為にそれぞれの「マキヤ」さんへ行ったりするワケです。

糸をその行程によって、色々なカタチに巻き直す事を、糸を巻く、糸を返す、機をへる、などなど色々な言い方をして、糸の方もそのつど巻かれるモノに合わせて「お巻き」とか「枠」とか色々な言い方に変わります。例えば「枠」に巻かれた糸を毛糸の束みたいなモノにしてゆく作業は「機へ」といいます。

「機へ」はウールでは天井まで届く馬鹿みたいに大きな木製の糸巻き機を使ってへて、正絹(しょうけん シルクのこと)では手作業でやります。尤も手作業といってもそれは大掛かりなもので、何て言ったらいいのかな・・・たこ揚げみたいな動きをずっと続けるのです。

ワタシの家では、「ガラカキ」だけでなく、この「機へ」や時には機を織る事もしていました。

こうして色々なルールに従って何度もまき直された糸を持っていよいよ機織りをして下さる方の所へ持って行きます。機織りも機械織り(自動織機をつかった機械織り)と手織りとがあって、木製の機械を使って手で織る事を「手機」と言います。

「手機」もそうですが、「かすり」という手法を使った反物を織れる人は大変技術のある、やはり高齢者の方しかなく、一人減り、二人減りしてやがては一人もいなくなってしまいました。

父も織りたい、という人に教えたりしていた様ですが、結果は機織り機を壊してしまったり、ひ(横糸)や糸を無駄にしてしまったりとあまり上手くはいかなかった様です。やはり、小さい頃から機織りをやっていて、糸と機とに愛情を持った人でないと難しい様です。

こうして織られた機(反物)は、最後に父が「検反」といってチェックと修正をします。これも又特別ちまちました作業で、ルーペで機をみながら糸のつりを針で直したり、ほんの1ミリほどの染めむらを修正したりするのです。こうしたシゴトが向いているせいか、父は普段からすごく手先が起用で、馬鹿みたく面倒で緻密な作業が苦にならないので、たまにびっくりしてしまいます。

そしてホントに最後に機は「たた」まれ、段ボール箱に詰められます。みなさんは反物、というと円筒形に巻かれた姿を思い起こすかと思いますが、ワタシはその行程の前のたたまれた機をまず思い浮かべます。

この機を「たたむ」作業も手作業で、尺のモノサシを持ち、それで計りながらたたんでゆくのです。そんな何気ない作業でさえ、ルールがちゃんとあってコツも要るのです。なんだか機ってホントに機っぽい。

洋服が時代に合わせて劇的に変化して生き残った様に、着物は時代に合わせてあまり変化する事を許されませんでした。それですたれてしまったのです。その頑固な所が機と着物の良い所でもあり、又弱点でもあったのでしょう。

こうして段ボールにつめた反物を父が問屋さんへ持って行きます。ウチのシゴトはここまでです。

綺麗に筒にまかれて日本橋のデパートに並ぶ頃には、反物の値段は0がひとつ多くなっています。0をひとつ多くする作業は問屋さんがします。この辺も普段の着物がすたれてしまった要因のひとつというか、コレが一番の原因でしょう。

着物は普段に着るのには、高価すぎるシロモノになってしまったのです。高級品は限定される程、その価値が上がります。より高価な素材でより少なくつくり、そしてより高く売った方が問屋さんは儲かるのです。

そんなワケでウチの父も喰いっぱぐれ、そして機屋をとりまく様々な「〜屋」もダメになってしまいました。

それでも父は藍染めや草木染めの研究をし、反物だけでなく、マフラーや小間物などもつくりましたが焼け石に水だった様です。しかし、それらの商品は今でも根強いファンの方がいて、たまに頼まれてつくってはいるようですが、(シゴトに対してはどこまでも)バカ正直な父は原価で譲っている様です。

草木で染めたモノは、それを一度見てしまったら、もう合成染料などで染めたモノなど見向きもしたくなくなってしまう程良いモノです。又、たまにTVで視るなんだか偉そうな「染織家」の人達の作品を見てもワタシは心を奪われると言う事はありません。

ここからは、身内のひいき目もあると思うので適当に聞いて下されば良いのですが(^_^;)、ワタシは父の染めた物は素晴らしいと思っています。それは「普段使いの」何かを超えて、十分「芸術」と言っても差し支え無い位だと。

それでワタシは、父に自分のつくり出す物を、問屋へではなく、ギャラリーに持っていく事をすすめたのですが、父自身には、自分のこさえた物にそれ程の価値を見出せません。

そういう「芸術作品」は、何処かのエライ芸術家センセイがつくっている物だという固定観念があるのです。父の中であくまでも父は「機屋」であってそれ以外の何ものでもないのです。

父がこんな田舎ではなく、都会に移り住んでいたらもしかしたら考えが変わっていたのかもしれません。瀟洒な住宅街の有閑マダム相手に「趣味の染め物講座」かなんかやって、年に一度くらいは小さな個展なんかやっちゃって。

・・・才能をドブに捨てる様に、今日も父は元気にそわそわしながら「ハローワーク」に通っています(^_^;)。1999/12/15 15:44(2001/12/25 23:12一部手直し)