* 賛 否 両 論 『 マ グ ノ リ ア 』
(メールマガジンでお届けに上がる商品のほんの一例です。)
これは、『マグノリア』という映画を観た感想文です。
一応、ネタばらしは無いとは思うのですが・・・これから観る予定の方は、やっぱり読まない方が良いと思うので読まないでね(^-^)。


日頃、文章を書いていて常々思うのは、「簡潔な文章を書くのは難しい」という事だ。

自分の言いたいことを吟味し、良く考えに考えて行ったら、きっと「言いたい事」っていうのは「只一言」になるんだと思う。

でもワタシなんぞは頭の回転が鈍いから、なかなか文章が短くならない。

短くて面白い文書が書けないからメールマガジンという手段を取ったと言っても過言ではない。(ウェブ上で長文を読むのは結構しんどいもんね。)

書いて書いて書いて書いて沢山書いて、やっと自分の言いたい事が判って、それから改めてその「判った言いたい只一言」についての文章を書く。

これがワタシの文章を書く流れなんだけれども、きっと頭の良いひとは最初から「判って」いるから、いきなり「言いたい只一言」についての文章が書けるんだろう。ワタシもそういう頭が欲しい。っていうか早くそうなりたい。

ところがそれどころか現実は、書いて書いて書いて書いて、やっと自分の言いたいことが判ったのに、その肝心の「判った言いたい只一言」が、そうする事によって誤りだと気付いたり、下らない事だって解ったり、なんて事も少なくない。

そうすると書いた作業自体には意義や意味があるけれども、それをひとに見せる、という事とは繋がらなくなって来る→→→メールマガジンとしてはボツにする。という事で、なんか浮かばれない様な気もする。

ちょっと横道にそれたけど、まぁ例え何千枚にも渡る論文でも、きっと「言いたい事」は「只一言」に集約できるんだろうと思う、って事だ。

只、その「只一言」だけじゃ説得力が無かったり、具体的では無かったりするから、その「只一言」についての文章・・・それは「判った言いたい只一言」に、実験の過程とかその結果とか、具体的な例とか・・・その他諸々、色々なことばを継ぎ足してゆく必要がある場合があって、だから「長い文章」もあるって事だ。

そうして出来た「長い文章」は、只「言いたい事が判らない」状態でだらだらと書かれた「長い文章」とは全く違った、長いなりにもその長いなりの意義や意味のある「長い文章」ってコトになる。

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『マグノリア』は、(やっと主題の題名が出て来た!そろそろネタバレに近くなるので、観て無い人はこの辺でやめといた方がいいかも。ってコトでここから目隠し。読みたい方はお手数ですが、ここから下の空白部分をコピーする時みたいに選択してから読んでね。)

(『マグノリア』は、)そんな風にその「言いたい只一言」に、みんなに解ってもらったり、感じてもらったり、共感を持ってもらったりする為に色々なことばを足して行く内に長くなっちゃった、というか長くなることが必要だった文章みたいに、3時間という長い映画になってしまったんだと思う。(それでも印度映画に比べりゃ短いが。)

作者は、観る側に「只一言」を只そのまま言ってしまうんじゃなくて、沢山の具体例を挙げて、その沢山の具体例の中から、観る人それぞれ自身にその「只一言」を感じ取ってもらいたい、まぁそれを感じてもらわなくても、何か観る側に結果をゆだねるという様なネライがあったんじゃないかと思う。

この様に、具体例を挙げて只それだけで、みんなに何となく解ってもらったり、更に共感というか身近なモノとして受け止めてもらおうなんて思ったらやっぱり、かなりの具体例が必要だろうから、それであんなに(ワタシはそう感じなかったけれど)長い映画になってしまったんだと。

劇中の中で、あるオマワリさんのセリフに『僕は決して君を裁いたりしない』というのがあったのだけれども、そのことば通りにこの映画は、何の(作者の)審判も決着も無しに、只、各々の日常生活が流れて行く様を、切り取り、切り取りして流している。しかもヘンなテンポで。

泣かせたり、泣かせなかったり、笑わせたり、笑わせなかったりと、出かけた涙が今、まさにこぼれるっていう瞬間にひっこめさせられちゃう様な、気持ちはその都度上げ下げさせられるんだけれど、自分の感情をそのままぐぐ〜っと入れ込んでゆく事が許されないとゆ〜か、そんな妙なテンポだ。

そして最後まで山場があったような無いような、ハッピーエンドの様なそうじゃ無い様な、映画としてのオチやまとまり、例えばスタンリーキューブリックという人のつくる映画の様に、ラストという只一点に向かってぎゅう〜っと凝縮されてゆく様な、流しのお水が渦を巻いて排水口に流れて行く様な、自分がその渦に巻き込まれて行く様な、そういう感じは一切無い。

「『マグノリア』はおもろくない、金返せ!」という人は少なく無い様なんだけれども、それはもしかしたら、そういうぎゅう〜っとした緊張感を求めていた人や、期待していた人、起承転結+更なるどんでん返しの後のEND マークっていうハリウッド映画に慣れた人にとっては「なんじゃ、こら」って感じで肩すかしな映画になってしまったからなのかもしれない。

ワタシは、そういうのって今まであった様で無かった様な気がするからすごく新鮮でよかったんだけれども・・・

でも、フシギなのはこの映画がオチ無しなのに何故かサッパリしてるって事。サッパリ塩味。

完結してないのに不完全燃焼な事なんて全然無くて、何故かスッキリ、サッパリ。それでいーんだと思わせてしまう。

それは劇中で『わざわざ事件を起こさない』映画作りにあると思う。

普通、お話しの中では、なんかきっかけというか「コイツが要らんことするから!」とか「コイツが何かやらなかったから!」とか、要らん事件が起こるものだ。

実はワタシはそーゆーのがすごく苦手。

自分が波瀾万丈の人生を歩んで来た為か、フィクション、ノンフィクションを問わず、『わざわざ起こした事件』を見せられるのにはウンザリだ。

そういうのを見たり聞いたりすると、必然として起きてしまった事件や事柄はしかたが無い、でもだってそれだけだって大変なのに、その上ややこしい事を起こさんでも・・・って気になる。

だから連続恋愛ドラマとか、ワタシには耐えられない。そいつが只、「○○ちゃんが好き!」って言ぃやぁ全て丸くおさまるのにぐずぐずしてるとか、周りが何か入れ知恵するとか・・・視ていてすんごくイライラしてしまう。みんなもっと素直に行こうぜ!って感じになってくるのだ。

『レインマン』って映画があったけれども、アレも誰もが何の事件を起こそうと思って起こしているワケじゃなくて、皆がよかれと思ってやった事がお話になって行く・・・っていう作りですごくイイ、って思ったんだけれども・・・その何気なさも霞んでしまう程のサッパリさ。

『マグノリア』は、こうした普通の人(って言ってもぶっ飛んでる人ばかりが出てくるけれど)の普通の日常の1コマを切り取った良い作品だと思いマス。(まぁ、ダメな人はとことんダメだったみたいですケド。)

リアルじゃない仕込みもリアルになってしまってます。

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・・・ってワタシが絶賛してもダメな人も多いみたいなんですが(^_^;)。

只、こういうレディメイドに答えが用意されていない様なモノを観て何かを感じ取る為には、「観る側」にもそれ相応のバックとパワーがいると思う。

ぶっちゃけて言うと、年に関係なく波瀾万丈が多かった人程、この映画は何かを感じ取り易い様な気がするワケです。だからコレは今まで苦労した人へのご褒美映画と言えなくもありません。こんな言い方はどうかと思うけれどもまぁ、「大人の映画」なんでしょう。

・・・でもなぁ、誰にだって生きている内には何かしら波風があるものだし、ご家庭のある人はどんなに幸せそうに見えるご家庭にだって、イロイロあるもんだろうし・・・又そういう所こそを描いた映画の様な気もするんだよなぁ・・・

だから、『マグノリア』でケツが痛くなっちゃっただけの人とか、寝ちゃった人の全員が何にも波風無い人生を送って来たってワケじゃ無いんだと思うんだけど・・・やっぱりアレがダメな人って「好みじゃない」ってコトに尽きちゃうんでしょうか・・・?

やっぱり「ヨカッタ派」のワタシの妹は、「オチが付かない」=「意味わかんない」ってコトでダメなんじゃん、と言っておりますが。

と、まぁ、綺麗にまとめた様なまとまって無いような『マグノリア』式のオチが付いたところで最後にいくつか下世話なお話を・・・

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*トム・クルーズ(フランク・マッキー役)はハマリ役!*
なんか、最初はこの映画で只一人、浮いてる様に感じたんだけれど『自信家でナルシストのクセして妙に神経質』っていう役をやらせたら天下一品だね。やっぱり地だから?!って感じでグーです。

*若い女性2人による行き過ぎの演技?!
若い女性2人(リンダ・パートリッジ役のジュリアン・ムーア とクローディア・ウィルソン・ゲイター役のメローラ・ウォルターズ)によるヒステリックな演技は、行き過ぎでハナにつく、っていう人もいるみたいなんだけど・・・ワタシには「嗚呼、アメリカ人って・・・」って感じにしか受け取れませんでした。だってアメリカの人ってすぐああなるんだもん。男女を問わず。米国のネイティブの人が観ても「演り過ぎ」かどうか是非知りたい所です。

*犬の死因は・・・?!*
ワタシと妹はあの犬の死因を「トム・クルーズが殺した」からって思ってるんだけれども、彼は例の「異常気象」によるものだって言う。『マグノリア』を観た、ワタシの唯一の腑に落ちない点と言えば点。

*動物愛護団体*
犬の死といい、例の「異常気象」といい、全世界の動物愛護団体の人達は怒ってないのかにゃー?何?!CG・・・?!

*考えず受け止めろ!*
最初、どわーっとラッシュで色々なシーンをバシャバシャと洪水の様に観せられますが、あせんなくってOKです。ワタシも最初ストーリーに追っついて行けなくて途中で諦めてしまいました。それも又作者のネライかも、なんても思ったし。

ガーンディーの様に無抵抗主義者の様になって、只ひたすらシートに体をうずめて観せられる全ての物を考え無しに「感じて」下さい。そうすると何故かいつのまにかちゃんとつじつまが合って来ます。白人の顔と名前が覚えられん、という人も安心して下さい。そんなの覚えられなくても全然OK、大丈夫です。

*当たらずしも遠からず・・・?!*
さっき
『マグノリア』の公式ホームページ(はちなみにネタばらしばしばしです。ご注意を。)観てたら「作品情報」の「プロダクション・ノート 」の所にこんな事が書いてあった。ん〜ん、ワタシってば当たらずしも遠からずな事言ってる?!って感じです。以下引用文です。注:文中の「アンダーソン」っていうのは監督・脚本兼の人の名前みたいです。
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アンダーソンは、もともと、「ちっぽけで親しみやすいもの」を書くつもりでいた。喝采を浴びた2作目『ブギーナイツ』の直後に、30日間ぐらいで撮影できるようなものを。だが彼の計画は、登場人物がべつの登場人物を生み出すにつれて変質していき、物語は人間の弱さと普遍的な混沌を織り交ぜた複雑なタペストリーとして開花した。「今でも『マグノリア』はちっぽけで親しみやすいものだって思う」とアンダーソンは言う。「ただちょうどいいちっぽけさと親しみやすさを表すのに200 ページと90日間かかっただけで」」
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*ポップコーンだけアメリカナイズ*
米国等ではお馴染みの、「ポップコーンの溶かしバター掛け」を『マグノリア』を観に行った日、初めて日本で食べました!コレを日本で食べる日が来るとは。感激。でも、劇場はシーンと静まり返っている。アメリカンの様にゲラゲラ笑っていたのは、ワタシ達と、(彼の証言によると)ワタシ達の斜後ろの白人さんだけだったそうだ。映画が始まる前に「上映中の私語は禁止」とかいう注意があるからか?!

映画なんて娯楽だよ。ポップコーン撒き散らして泣いたり笑ったり、楽しまなくちゃ。炒り立てポップポーンを輸入しても、映画の楽しみ方はソレまで通り。みんなおすましして観ている。「私語をしない」のと「笑ったり」「泣いたり」っていうのは別モンだろ?!一体いつから日本の映画館ってこんなコトになっちゃったんだ?ワタシが小さい頃は、そうじゃなかった気がするんだけど。

・・・っていうか皆さん『マグノリア』で楽しめてなかったってだけ?!

お後が宜しい様で・・・
21/V,2000


*つけたし*
言い忘れましたが、音楽もめちゃくちゃよかったです。

最後に登場人物みんなが唄う「ワイズ・アップ」だけじゃなく、映画全般を通して、音楽がめちゃくちゃよかった。久々にサントラ欲しくなっちゃったよ。

『戦場のメリークリスマス』でも、まだ音楽を付ける前、ラッシュの時は「へ〜」「ほ〜」って感じだったけど、音楽を付けたらすごくヨカッタというこぼれ話しを聞いたコトがありますが・・・『マグノリア』も音楽が無かったら全く違ったモノだったのでは・・・?!って思っちゃいました。

んで、あとから公式ホームページ観たら、この映画はそもそもエイミー・マンという人の音楽にインスパイアされて出来た映画だったとか。なるほろ。音楽とばっちりってコトだ。(それから監督兼脚本のアンダーソンさんがエイミー・マンに、まだ書き上がって無い脚本を渡して、それで他の音楽も作ってもらったとか。


ふむふむ、そぉゆ〜ワケだったんすね。
22/V,2000

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