* 叔父のアフリカ大体験記? *
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 「神秘珍珍ニコニコ園リベンジ・ツアー」で、ワタシが叔父のハナシをした所、なかなかに好評(?)だったので、今日はそのお話しを。
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 ワタシがケニアに旅立つ前々日、偶然長野に住んでいる叔父が遊びに来ていた。ワタシは家人にケニアに行く事は告知していなかったが、(そういえば叔父は若い頃アフリカを旅したことがあるって言ってたな)という事を思い出し、何か情報がもらえるかと思って

「アタシ、明後日からアフリカ行くんだよっ(^-^)」

と言ってみた所、普段冷静な彼が突然青ざめて

「バカ、お前、アフリカなんかとんでもない!女には無理だ、
死ぬぞ、行くな!」

と言い出した。

多分その時の叔父の脳裏には、走馬燈の様に自分の辛い旅の経験のあれやこれやが駆け巡っていたのだろう。

 バンコクの安宿の壁に恐らく1$360円当時の旅の強者が残したと思われる

『金の北米女の南米、歴史のアジア、忍耐のアフリカ、何にも無いのがヨーロッパ』

という有名な標語(?)があるけれども、その名の通り、アフリカの旅は(特に1$360円当時は)辛いものだったのだと思う。

かくいう叔父も1$360円当時の旅行者で、しかもアフリカ大陸の中央のフランス語圏を縦断したというのだから、その大変さは想像に難くない。

まず、その頃は日本からの円の持ち出しが制限されていたのだ。

現代(いま)の様に好きなだけお金を持っていって海外で使えるのとはワケが違う。そしてアフリカの中央と言えば、政治も季候も交通もそれはタフな所だろう。

案の上、叔父も途中の中央アフリカか何処かでマラリアにかかって死に損なったと言う。

 叔父は、その時東京の大学に行っていて、大学の友達と2人で休学か何かして1、2年程世界旅行をしたのだという。旅費は地下鉄工事の“ドカチン”をして稼いだと言っていた。

言葉は、東京の専門学校でフランス語を習って行ったというからなかなかに用意周到だけれど、当時は外国に行くってすごい事だったろうからその位の覚悟は当然だったのかもしれない。

叔父達は、最初ヨーロッパを廻ってそれからアフリカに行ったらしい。そしてアフリカ大陸を縦断中、マラリアにかかって売春宿のベッドの上でうんうん唸っていたと言う。お金も使い果たし、「あ〜俺はここで死ぬのか〜」と何度も死を覚悟したそうだ。

(ちなみに、売春婦を買う為に売春宿にいたのではなく、泊まるのが安いからそこに泊まっていたらしい。ワタシも旅行中、やっぱり安いので何度と無く売春宿や連れ込み宿に泊まったものだ。)

それでも何とか日本に連絡がとれてお金を送ってもらう事になったのだが、当時は日本円の持ち出しが禁止されていたから、普通の郵便物にお金を忍ばせて送るしか方法が無く、封筒に直に日本円を入れて送ってもらったそうだ。

ところが、その頼みのつなのお金が盗まれてしまった。郵便物を途中で開けられてお金を盗られてしまったのだ。

危機一髪。

その時、現地で知り合ったのが、アフリカにたまたま布教活動に来ていた、日本の新興宗教の団体だったそうだ。

彼らは叔父達を看病してくれ、叔父達はそのお礼に布教活動を手伝ったという。

それから叔父達は、その新興宗教の人達と一緒にドンドンと太鼓を叩き、お経を読み上げながら世界中を練り歩き、そうしてある日、ついに日本への生還を果たしたのだという。

勿論、その新興宗教の人達と共に太鼓を叩きながら日本に帰って来たのだ。

帰国後の叔父は、もう全くその新興宗教とは関わり合っていないようで、
「あのアホダラ教だか何だかのお陰で助かった」
と、その宗教団体の名前も覚えていない位だが、感謝はしている様だ。

 そんな体験をしたんだから、叔父が「アフリカ旅行=死」と思うのも無理はないのだろう。

結局ワタシは「ワタシの旅は叔父さんのと違って東アフリカのケニア、しかも今は乾季でそこに動物を見に行くだけ何だから大丈夫だよ」と説明するので精一杯、叔父から旅の情報をもらうどころの話しではありませんデシタ(^_^;)。
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ちなみに、ワタシのケニア旅行は、現地にその名も『マラリ・クイーン』というマラリアの予防薬があって、ワタシはそれをきちんと毎日飲んでおり(帰りの飛行機でヒドイ下痢はしたものの)マラリアにもコレラにも黄熱病にも冒される事無く、無事に動物を見て帰って参りましたとさ(^-^)。めでたし、めでたし

*そのケニア旅行の事は少しですが『よだれの出る瞬間』に書いてあります。もし良かったら除いて見て下さいm(_ _)m。