* あ る 友 人 の コ ト *
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先日、(2000年 3月12日)、友人が金魚屋さんを開いたというのでお祝いに行く事になった。

開店自体はもう前だったのだけれど、ワタシの方もばたばたしていて、なかなか行けないでいたのだ。

開店、と言っても正確に言うと彼がお店を出すというワケではなく、彼のお友達の熱帯魚屋さんの一角を借りて金魚を置かしてもらうという状態らしい。

それにしても・・・彼は車椅子を使っている。手も重いものを持ったりは難しい状態だろう。一体どういう風に金魚屋さんをやっているのか・・・水代えとか水槽の移動とかはどうしているのだろうか・・・???

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彼とは、病院で知り合ったいわば「病院仲間」だ。

その時ワタシは、顎の病気でその手術の為に入院していて、彼は事故で首から下が麻痺してもう2年近く入院しているとの事だった。

彼にとって「事故」も躰の「麻痺」も2度目の事で、2度目の今回の入院では、生死をさまよう様な状態も長かったという。

ワタシが知り合った頃の彼は、上半身の機能はだいぶ回復していて、でもベッド上での生活だったか、それとももう車椅子を利用していたか、まぁともかくそんな感じで一時期よりは大分落ち着いていた頃だったと思う。

とはいえ、やっぱり油断のならない状態は状態で、病室は彼の家みたいな感覚。ちょうど古くからそこの家に住んでいるお隣さんみたいに、今までもそしてこれからも、いつでも病室に訪ねて行けばそこに彼がいる、と誰もが当たり前の様に思うでもなく自然に思っていた頃と思う。

そんな彼が退院したのはそれから1年、いや半年後位だったろうか。

腰から下の麻痺はそのままだったが、状態が奇跡的とも言える程良くなって、もう危険な状態に落ち込むことも無いだろうと判断されたのだ。

それで彼は車椅子に乗って退院した。

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それからしばらくして、でもまだ退院してそう経ってもいない頃、ワタシ達はドライブがてらちょっと大きな公園に行った事があった。

当時、ワタシはまだ軽(自動車)を持っていて、彼は助手席、車椅子は後ろに積んで行った。

その時、2人でその公園のちょっと大きな池を眺めながら、ふとしたきっかけから車やバイクの話しになった。

ワタシも乗り物が好きだが、実は彼も大好きで、バイクや車を何台か持っているとのコトだった。

中でも一台古いロータスを持っていて、それはとある車庫に預けていると言っていた。

もう乗ることも無いだろうその高級車を、『いつか乗れる日の為に』「な〜んか持っていたい」のだと彼は言っていた。

そう言う彼の横でワタシは言葉を失っていた。

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金魚は、彼の昔からのもう一つの趣味だった。

退院後、彼はさっそく金魚の世話を再開した。
彼の自宅の2階には、大きな水槽がいくつもあって、中でも大変貴重な「土佐金」というのを増やしていた。(水槽の移動等はお母様に手伝って頂いていたみたいだった。)

飼育が大変難しいとされるその「土佐金」達は、彼のかいがいしい世話のお陰で、彼の水槽の中ですくすくと育って増えて行った。

いや、世話のお陰だけではない。モチロン、世話は第一だけれど・・・

彼には何かそんな不思議な「力」があるのだ。ワタシにはそう思えて仕方がない。

彼の手はとても綺麗でやわらかくて、ひんやりしている。

それでいてしっとりしていて造形は整っているのにすましていず、何だか何かがにじみ出ている様な、しみじみとした手をしている。

ワタシはそんな彼の手を見ているだけでなんだか幸福な気持ちになる。

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彼にはそういう人を安心させるというか倖せにさせるというか、只そこにいる、というだけで、只、存在する、というだけで、何か人を惹き付ける様なものがあって、

それは天から授かった「何か」(才能とかタレントとかそういう類の「何か」)がそうさせるのだ、と、ちょっとオカルト入ってるかもしれないけれど、ワタシはそう思っている。

だからこそ、彼の周りには、彼が健康な時も、死に最も近い所にいる時も、車に乗ってる時も車椅子に乗っている時も、大工の時も、メイクアップアーティストの時も、お店をやっている時も入院している時も金魚を育てている時も・・・

いつだって友達や仲間が集まって来て、そして集まるみんなを必ず幸せな気持ちにさせている。

1度目の事故の前、彼が大工さんをやっていた時、彼は設計図も何も無しにいきなり木を削って家を建てていたという。なんだか魔法の様な話しだ。

その後、(1度目の)事故の後、彼は手や足に力が入らなくなってしまって大工から一転、メイクの勉強をしてメイクさんになったのだそうだ。

ワタシも一度彼にお化粧してもらったコトがあるけれども、やっぱり彼は魔法を使った。

木はきっと彼の手に応えていたんだろう。そして誰かの顔も・・・

そんな彼のあの手に触れられたら、草木も金魚も、それは抜群に良く育つんだろうな、とワタシは思った。

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共通の友達(ここではχくんとします)に最寄りの駅まで迎えに来てもらい、途中でベンジャミンの鉢植えを買って彼のお店に向かった。

χくんに例の彼のロータスの話しを訊いてみると、彼はまだあの車を持っていて、でも今はバラバラにして保管しているとのことだった。

『いつか彼が乗れる日が来るまで』。


「ここを降りて行くんだよ。もともとは1階の熱帯魚屋さんの倉庫だったみたい。」

χくんはお店に着くと1階の熱帯魚屋さんの中にあるハシゴ見たいな急な階段を下りて行った。

そういうのが苦手なワタシは普通にはその階段が下りられず、恥ずかしい事にベンジャミンを抱えて後ろ向きで手すりに捕まりながらそろり、そろりと降りて行った。

(それにしても・・・完全バリア・フリーだと思っていたのに・・・この階段じゃあ大変だなぁ・・・)などと考えていると、

「よぉ!」

と先に降りたχ君を迎える「彼」の声がした。

もう何段か階段を降りてお店の中を覗くと、彼が水槽の淵につかまって「立って」いるのが見えた。

「え?!なんで○○さん立ってるの?!」

ワタシは挨拶もせずに開口一番、言ってしまった。

彼はさむえみたいな出で立ちで「立って」いたのだ。

「え?!なんでって・・・なんだχ君言ってなかったの?!」と彼もびっくりしていた。

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聞くと彼は昨年の暮れに急に「立てる」様になったらしい。

最初、感覚の無かった足がしびれて来て、だんだん手で触ると触られているのが判る様になって来た。

それで、「こりゃひょっとして立てちゃうんじゃないの?」と何かにつかまって両手にぐぐっと力を込めて行ったら本当に「立てて」しまったのだという。

最初はそれだけだったけれど、それから徐々に歩ける様になって今に至るのだという。

モチロン、まだ重いものは持てないし、あまり歩くと膝に負担が掛かったりする様だけれども、今ではこうして大好きな金魚に囲まれながらお店もやっている。

左手の薬指に指輪が光っていたので野暮だが訊いてみると、お店の前にあるマンションに、やっぱり去年の暮れから恋人と暮らしているのだそうだ。

・・・退院から実に4年後のコトである。

χ君はワタシを驚かせようと、ずっと今日までこの事実をナイショにしていたのだ。

彼は彼で、ワタシがもうχ君からこれら一連の変化は聞いていると思っていた為、電話で話す時などには特別話さなかったらしい。(何てコト!)

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「何が良い?」

と、あの急な階段を上がって外まで飲み物を買いに行く「彼」を見ていると、ロータスを組み上げて乗る日もホントに近いのかも・・・と思った。

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・・・それにしても、驚いた。

でもワタシが一番驚いたのは、実は彼が「立った」り「歩いた」りしているコトではなかった。

それがとても自然で、というか彼自身が相変わらず静かにやわらかい、彼の手みたいな感じで、以前と全く変わっていなかったコトに驚きを感じたのだ。

・・・彼の足の機能が回復した事は、それはとても喜ばしいコトなんだろうけれども、でもだからと言って彼は、そのコトを涙ながらに喜んでいる風でも無いし、かと言って喜んでいないのかと言うと全然そんなことではないし、

まぁともかくとても自然に『あら、そうなの。立てる様になったの』とでも言う様に「歩ける」様になった「事実」を受け入れている感じがしたのだ。

多分、彼は車椅子を受け入れた時も同じ様な感覚だったのではないだろうか。

そして、ワタシは見ていないけれども、彼に聞いた話しから察するに、恐らく2度目の事故で病院にかつぎ込まれた時、意識が戻って「首から下が動かない!」と判ったその時も、

彼はそうやってするりとその「事実」を受け入れてしまったのじゃないだろうか、とさえワタシには思えてしまう。

車椅子を利用している時もそうだった。

彼は「歩ける様になりたいー!」と強く思っている風でも無かったし、さりとて自暴自棄になって何かをあきらめてしまっている様子でもなく、

だってロータスも『プロ用お化粧道具一式』も、捨てたりせず、きちんと持っていたのだもの、『いつか使う日の為』に。

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そんな風にいつだって彼は、ハタから見ている分には何かお水が流れる様に自然に、いつでもさり気なく、何気な感じに生きている様にワタシには見えるのだ。

「Let it be」とか、遠い昔、お釈迦様が言ったとされるコトとかそういうコト、つまり『あるがままを受け入れ受け止める』っていうコトは、こういう状態を言うんじゃないかなぁ、とワタシは思う。

『あるがままを受け入れ受け止める』

っていうのは簡単そうで、実はとても難しい。

その「事実」そのものを受け入れ、受け止める難しさもさることながら、普段のワタシ達は、そもそもその「事実」という事柄そのものさえも正確に見ていないのでは無いかと思う。

そしていつも「事実」というコトそのものでは無く、それにいつの間にか色々くっついてしまった、目に見えないものというか、実態の無いものというか、

要するには「事実」ではない、『余計なコト』の方に目が行ってしまって(「事実」ではないその『余計なコト』の方に囚われて)一喜一憂しているのではないだろうか。

例えば、小石を雪の上で転がすと石に雪がくっついて大きな雪玉になる。その小石が「事実」で、周りにくっついている雪が『余計なコト』だ。

小石には雪が沢山くっついてしまって、ワタシ達にはもう小石の存在が見えない・・・

普通、人間は無意識にそんな風に物事をとらえているフシがあると思う。

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良い具体的な例が挙げられればいいのだけど・・・

ううん、例えばいつも恋人が電話をかけて来る時間に電話が掛かって来なかった時。

「事実」は、只、「こちらが予測した時刻に恋人から電話がかかってこない」というだけなのに、人々は色々『余計なコト』を考える。

(浮気してるのかしら)とか(まさか交通事故じゃないかしら)とか(もうワタシのコトはどうでもよくなっちゃったのかしら)・・・などなど。

極端な人になると(もういいや、こんな思いする位ならいっそのコト別れちゃえ!)なんて相手と喧嘩したワケでも何でもないのに別れの手紙をしたため投函しちゃった・・・

なんてコトになっちゃう人だって、中にはいるかもしれない。

「不安」という感覚があるけれど、それは大体の所、こんな風に「事実」の周りにくっついている『余計なコト』が原因になってるんじゃないかと思う。

稀に、「こちらが予測した時刻に恋人から電話がかかってこない」という状況下で、(イヤだわ、彼ったらワタシへのプレゼント買ってて遅くなってるのかしら)とか(きっとワタシの声を聞くと嬉しくて眠れなくなっちゃうから電話して来ないのね)なんていう風に思っちゃう人だっているかもしれない。

それだって小石にくっついて来る雪の一種だと思う。

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そんな具合に人間というのは、「こちらが予測した時刻に恋人から電話がかかってこない」という様な「事実」を、只そっくりそのまま「こちらが予測した時刻に恋人から電話がかかってこない」という「事実」として受け止めているのではなくて、

多かれ少なかれ大抵は「事実」の周りに(浮気かしら)とか(プレゼント買ってるのかしら)とかいう様な諸々の『余計なコト』もくっつけて物事を考えたり、そこから色々思ったり予感したりして気持ちを上げ下げしている様に思う。

そして大抵はその「事実」そのものよりも、その周りにいつの間にかくっついてしまっていた『余計なコト』の方に着眼してしまっている可能性の方が高いんじゃないかなぁ・・・っていうかワタシはかなりそういう人だ。

ワタシがもし「彼」と同じ様に不慮の事故で突然躰が動かなくなってしまったとしたら、とても色々なコトを色々に不安に思うだろうし、そして色々なコトがダメだと思ったり出来ないと思ったりして必要以上にへこんで全く『希望を失って』しまうかもしれない。

これは余談だけれども、『希望を失ってしまった』状態っていうのは、きっとそういうコトなんだろうと思う。・・・「事実」として出来る事でも出来ない事の様に思ったり、「事実」としてダメじゃ無いことでもダメだと思ったり・・・そんな状態。

一方、「事実」の周りにくっついている『余計なコト』を否定したり、打ち消したりする分には『希望を失った状態』という感じにはならないんだろうと思う。

それはどっちかっていうと『期待を裏切られた』とか、『思わくが外れた』とか、そういう状態なんだと思う。

ところが、「彼」の様な人にはそういった『余計なコト』に振り回されたり気持ちを上げ下げされている様子があんまり無い。

彼は常に「事実」の周りにくっついたこうした様々な『余計なコト』を捨て去って、先の小石の例で言うと、小石の周りの雪を全部払いのけて、常に小石そのものを見ようとしていて、だから

「首から下が動かない」とか「立てなかったものが立てた」とか、普通なら(っていうかワタシなら)大騒ぎしてしまう様な場面でも、

しずかに、只、その「事実」だけを受け止め、そして受け入れていたのではないだろうか。

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でももっと正しく言うと、彼は『小石の周りの雪を全部払いのけて』いたのではなく、実は『最初から雪は小石にまとわりついてはいなかった』んじゃないかと思う。

つまり、『余計なコト』を捨て去ったとか、それに惑わされ無いとか、くっついた雪にばかりに気を取られて、小石という「事実」の方に着眼していない、とかそういうコトではなくて、

多分、雪原に「事実」という小石を転がした時、その雪原に降り積もっていた雪の質があんまりにも良くて、

それはさらっさらのパウダースノウで、だから小石が転がって行っても、小石に全く雪がくっつかなかった・・・ってそんな感じなんだと思う。

・・・そして良質のパウダースノウは、ふんわりと空気を沢山含んでいて、落ちてきた小石達をそっと受け止めたんだと。

最初の事故とか、その時大好きな職を諦めなくてはならなかったコトとか、2度目の事故、それによって体が全く動かなくなったコトや大切にしていた車やバイクに乗れなくなったコト、そして何よりもかつて一番大切に想っていた婚約者が去って行った日のコト・・・

きっと、そういった無数の「事実」という小石達が、彼のこころという名の雪原の中に、沢山、沢山、落ちて来たのだと思う。

でも、その石達は雪まみれになることなく転がり、やがてはやわらかく湿った雪に抱かれ、今もその雪の中にしずかに埋もれていることだろう。

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そんな彼の生き方というか、そんな彼自身からは、何となく満ち足りた、満足そうな印象がにじみ出ているんだと思う。

だからこそ、彼の周りにいる者は、何となく安心して幸せな気分になるのではないか。

・・・彼の魔法の正体はそれだ。

そして本当のマジックは、彼がもしかしたら生まれながらにそういう生き方の資質を持っていたのではないか、というコトだ。

(先に「天から授かった何か」と言った真の意味は、実はこのコトなのです。)

実際は生きていく上で母親を始め色々な人々との関わりや、自分自身で修得したり考えたりして来た中からそういう生き方になって行ったのだろうとは思うのだけれど、

なんだかワタシは、「彼」は生まれた時から『そういう人』の様な気がしてしまうのだ。

・・・そういえば全くの偶然だけれども、彼の手の感触は、良質のさらさらパウダースノウに似ている。