* 妙 な 夢 *
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 それは、インドネシアのロンボク島という所へ行った時のお話しです。

その頃のワタシはバリ島の山の方のウブという村の、間借りと宿屋のあいのこみたいな所に長居をしていて、そこを拠点に行動していました。

ロンボクへはバリ発午前2時のペリニ汽船に乗り、3日後の同時刻のバリ行きで帰って来ました。その行きか帰りかは今ではもう思い出せないのですが、そのどちらかで乗った船が日本の何処かの観光地のフェリーの払い下げで、まぁ、潮の関係もあるのでしょうが、その日本製の船に乗った時の方が随分早く目的地に着いてしまったのをよく覚えています。

ロンボクのタンジュンアーンという所は、浜と海の素晴らしく綺麗な所で、その海はあまりに(透明度が高く)キレイなので、返って魚があんまり住まない、というくらい美しいものでした。

しかし村は貧しく、竹で編んだ長屋みたいな集落で買った米は、質が悪く研ぐとぼろぼろと崩れてしまう様な米でした。自宅に井戸を持っていない人は村に一つの共同井戸を使い、子ども達は腰布ひとつでペットボトルの空き瓶でつくったシカケみたいなのをかついで海に、多分魚を捕りに行ったりしていました。

そしてワタシ達(ワタシは出国10年目という"旅の強者"について旅をしていたのです。ここでは"旅の師匠"と呼んでいます。)もまけじと貧しく、そのお米を海で研ぎ、海のお水で炊いてブブル(お粥)を炊きました。

オカズになるかな、と沢山浜で小さなカニを捕まえたのですが、結局それは食べず、師匠の提案で持参していたバナナを粥を炊いた小さな鍋に切って入れ、それで食べました。ピサンブブル(バナナのお粥)は意外とイけて、それは多分バナナでも入れた方が美味いと感じるほど、もみがらの混ざる米は日本で育ったワタシには、臭く感じたのです。

ワタシはロンボクというとこのタンジュンアーンの海と"まずしい"という感覚をしごくしずかに、そして鮮明に美しく、想い出すのです。
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さて、日記(前記した「旅ノート」)によると「その日」はその紺色の海のタンジュンアーンではなく、クタという村で野宿したようです。ちなみに" クタ" いう地名はバリにも有名なクタ(クタ・ビーチ)というのがありますが、この日野宿したのはそちらのクタではなく、ロンボク島にあるクタという村でした。

野宿の前に宿屋も探したのですが、何処も値段に折り合っている様ではなかったし、部屋もそれ程良くはなかったし、ベッドには南京虫がいたし、お金は無かったしで、私達は浜の岩場の影で野宿と決め込みました。

大きな岩の岩陰に師匠が持っていた印度産のシーツ(というか、腰巻きというか、まぁとにかく布です。)とワタシの持っていた綿ロープ(コレは本当に重宝しました。洗濯を干したり、荷造りしたり、ハンモックを作ったりもしました)でカーテンを作り、まぁ、それが申し訳程度の扉というかテントの代わりです。

ワタシはわりに野宿が好きで良くしました。時には街の中で知らない人の家の軒先で寝たこともありました。害虫と夜の蝶の沢山居る安宿のしけったベッドよりも、その方がワタシはずっと気分良く眠ることが出来たのです。

ところが・・・ワタシ達の所へ村の人がやって来て、ここはヘビが出てアブナイから(野宿は)よせ、というのです。しかしワタシ達は(その時恐らく心身共に疲れていて、多分早く人気の無い所で休みたかったので)そこを動きませんでした。すると今度はオマワリさんがやって来て、やっぱりアブナイからよせと言います。

それでも動かなかったらなんと最後には軍隊の人が迷彩服でやって来て、この岩とこの岩の向かいの岩は毒蛇の巣だから軍隊の所で寝ろと言い出した。村の男の(子)2人ほど、(何故か日記には子がかっこ付けになっていて、「男の子」=若い男性が2人なんだか、若い男性とその子どもなんだか男児が2人なんだか「?」なのだが、確か声をかけてくれたのはサロン屋の若ダンナだったと記憶。)も家に来いと言い、なんだかすったもんだになって来てしまった。

そうこうするウチに師匠が海に手を洗いに行くと本当に1.5M位の白い海ヘビが出て(そのヘビは皆が言う毒蛇とは違うヘビだったのだけれど)流石にワタシ達も観念してキャンプ(のまねごと)をたたみ、移動する事に。

声をかけてくれた男の人はサロン(インドネシアの腰巻き式スカート。男性も女性もコレを着用)屋さんで家が裕福らしく、ウチの前に野宿しろとか、ウチに泊まって良いとか言ってくれたのですが、ワタシ達はやってきたオマワリさんの勤務する交番の前をねぐらにしようと決めました。

すると今度はサロン屋の一団体とオマワリさんとがゾロゾロとやってきて、やれこの部屋(交番)を使えの、コレがトイレのカギだのとワイワイガヤガヤ。どうやらワタシ達はすごく貧乏な、もしかしたら駆け落ちカップルとでも思われたのかもしれません。

何でも6日後にお祭りがあるので人が沢山来るから盗難に気を付けろと、いうコトらしく、人々はしきりに部屋へ入れの荷物を入れろのパスポートはどこだのと騒がしく・・・結局ワタシ達がゴザとまくら二つとランプと(交番の)部屋のキーを借りると、村人達はそれでもひとしきり奥さんの自慢話やらなにやらをした後三々五々帰宅し、ワタシ達はやっと誰もいない交番の前に並んで横になることが出来ました。

まぁ、親切にしてくれているらしいのでむげに断るコトも出来ず難しい所なのですが、インドネシアでは(まあどこでもそうだけれども)とにかく人々は観光客からカネをむしりとろうとしていたし「定価・料金」といった物が一切無い社会では全てが"交渉"しなければならなかったし、そしてその"交渉"が何故かボるコトで有名な印度よりもしんどかったし、結構田舎で外国人がめずらしく、何処に行っても珍獣扱いだったし・・・で、今思うとその頃のワタシは沢山の人に囲まれてなんやかやとされるコトに少々疲れていたのだと思う。だからかたくなに交番の前に野宿をしたのだと。
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さて、その晩。

ワタシは暴漢というかドロボウというか、誰かに襲われる夢を見ました。カラダを動かそうとしますがカラダはピクリとも動きません。すごく苦しくて脂汗をたらして耐えていると

「殺したろか!本当に!!」

という大きな怒鳴り声がして、その瞬間に金縛りがとけて目が覚めました。声は師匠のモノでした。その師匠も同時に同じ様に飛び起きて、2人で今の出来事を確かめ合いました。

・・・どうやらワタシ達は、同じ夢を同じ時刻に見て、そして同じように金縛りにあっていた様なのです。つまり、すごくリアルな同じ夢を共有していたらしいのです・・・


朝になると勤務を交代した若いオマワリさんがやって来て、氷屋のトラックを止めてくれ、ワタシ達はそのトラックでタンジュンアーンまで乗せてもらえるコトになりました。

トラックは押し掛けしてエンジンをかけ、壊れそうな音を出しながらワタシ達と氷を乗せ、急な坂を昇って行きました・・・