* タ イ 初 体 験・前 編 *
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 始めてのバンコク(タイ)は印度への空路の途中、2泊程度立ち寄ったのだった。

その時は妹と2人、印度がメインであったから、とりあえず一応印度のガイドブックは例のあの黄色い表紙の奴を初心者らしく持参していたのだが、タイに関してはホントに何も知らなかった。

今思うとあまりに無謀である。

だいたい、私は全くのフリーで旅行するのは始めてだったし、妹なぞはこの旅行の為にパスポートを作ったのである。

オマケに、関係無いかも知れないけれど、ワタシの高校の地理の成績は2。それも10段評価の絶対評価でだ。

今でこそ何かというと地図帳を広げ、飽きもせずしげしげと地図に見入っているワタシであるが、例の怒濤の旅行の前までは、地図の楽しさなんか全く解らなかったのだ。

「タイ」という国についてのワタシ達姉妹の予備知識といえば、私は、「シャム猫の原産地であったらしい」という事と、「首都はバンコク」という事だけ。

妹は、「ゾウにヤシの実をやるとそれをそっくりまるごと食べてしまうらしい」という事だけだった。(←アホな姉妹ですね。)

それから旅行前迄に知った事と言えば「バンコクの空港は24時間やっていて便利だ」という事と、あと知り合いの旅行会社のおじさんから出発直前に「とにかく空港出て左側に行くバスにのれば街に出る」という事を聞かされただけだった。信じられないが、ホントにたったそれだけの情報で、初めてフリーで行く外国で(何度も言うが妹なんか外国そのものが初めてだ。)2泊3日を過ごしたのであるから、恐ろしいというか怖いもの知らずのハナシである。

ひょっとしてこういうのが『若気のいたり』っていうのだろうか?

この無知なほげほげ姉妹が、次にタイについての情報を仕入れたのは、もうタイに着いてから、それも空港で両替をした際、タイの通貨が『バーツ』であるという事を知った時だった。
つまり(情報の)現地調達である。

・・・その時はまだ、2人とも移動の疲れもそれ程感じず、初めて見る奇妙なお札を手に取り「へぇ〜タイのお金は“バーツ”って言うんだぁ」などとはしゃいでいた。

しかし、両替を済ませて空港の外に出るやいなや、2人はバンコクのあの凄まじい熱気と湿気と排気ガスとが体中に吸い込まれて、げんなりと躰が重たくなってしまったかの様に、即座にコレまでの疲れがどっと出て来た様な感じがした。

シャツはじっとりと湿って肌にまとわりつき、前に抱えた小さなデイバッグはうざったかった。そのくせ強い風が吹いていて、その脂っぽい空気のホコリは顔と喉に絡みついて、気持ちはせわしなく、神経ばかりがとがってちっとも平気ではいられなかった。

多分、2人は、空港を出た時点で、もう既にバンコクに負けてしまっていたのだろう。

負けていた、という言い方がおかしければ、あの圧倒的な雰囲気に「呑まれてしまった」いや、呑み込まれてしまっていたのだと思う。

・・・気力を振り絞ってやっとの事でバス停をさがし、さて街に出ようと思ったが、なにしろワタシ達は街の名前一つも知らないのである。そこで近くにいる人に訊ねてみたが一向にラチがあかない。

多くの日本人がそうする様に、(ワタシの田舎だけか?)タイのおじちゃん、おばちゃん達は、ワタシ達がカタコトの英語らしき物で話しかけると、恥ずかしがって逃げてしまうのだった。

(当時ワタシは、現地で現地のことばを習う術も無く、只、ワタシ達はとにかくあせっていて、とりあえずワタシ達にとって一番手近な外国語である「英語らしきモノ」で話しかけてみたのである。今思うと、とても傲慢なコトだったと反省している。)

では(学生さんなら少しは英語を解ってもらえるのでは)と思い、制服の男の子に街への行き方を訊ねたのであるが、彼は考えてはくれている様なのだが、やっぱり一向に要領を得ない。

そのうちその男の子は真剣に困ってしまっている様子だったので、こちらもだんだん申し訳ない気持ちになってきてしまった。

勿論、バスの表示を見てもワタシ達にはワケの解らないタイ語である。

時間はどんどん過ぎて行くし、暑いし排気ガスはすごいし、焦りと疲れで姉妹はバスに乗る前からクタクタになって泣きたくなってしまった。

それで切羽詰まった2人がどうしたかというと、悲しいかな旅行会社のおじさんから聞いた通り、本当に左に流れるバスに当てずっぽうで乗ったのだった。

そして当てずっぽうでバスを降り、更に当てずっぽうでHOTELをさがしたのだが、HOTELと思って建物に入るとフツーのオフィスだったりして、ワタシ達は日差しと乾きに責められながら、それを3件も4件もくりかえした。

そうした街の方角や宿屋探しなど、旅が長くなると「ハナ」(鼻)で判ってくる様なコトのほとんどが、その時のワタシにはまだ全然判らなかったのである。

そして、HOTELの探せないまま、とんでもないことが起きた。
お手洗いに行きたくなったのである。

公衆便所は見当たらない。

そこで2人は日本の子ども商い(ワタシの地元のことばで駄菓子屋のこと)か、小さな雑貨屋かという様な所でビン入りの7-UPを買い、店のおばちゃんに「お手洗いかして」とまたまたへたくそな英語で言ってみた。

私のセンテンスがまちがえていたのだろうか、やっぱりおばちゃんには全く通じない。そこでしゃがむ真似をしてみたら、おばちゃんは木のイスを出してきてくれ、そこに座る様、すすめられてしまった。

もうワタシの膀胱はぱんぱん、冷や汗が出るほどになってしまい、これで最后のチャンスだとばかり、ハジをしのんでコカンに手を当て子どもがやるように「もっちゃうよー」と日本語で言いながらジタンダをふんで見せた。

するとおばちゃんそれを素早く了解し、マンディーをかしてくれた。
それが私とマンディー(東南アジアのフロ兼トイレ)の出会いである。

さて、2人して便所をかりて日本語で一生懸命お礼を言い、まだ飲み切っていなかった7-UPを持って出て行こうとすると、店のおばちゃんが『行くな』という。

どうやら『7-UPを持って行くな』というコトらしい。

そこで『7-UPを持って行ったらダメなの?』と身振りして表すと、おばちゃんは『持っていってもいいヨ』という感じだったのだが、でも何故だかワタシ達に小さなビニールブクロを渡そうとした。

それでワタシ達は、先のトイレの時みたいに(又、ハナシがぜんぜん通じて無いのかな)と思い、『いや、フクロは要らないよ』と店を出て行こうとすると、おばちゃんは又ひきとめる。

そこでまたまた『7-UPを持ってっちゃダメなの?』と訊ねると、おばちゃんは『持ってって良い』と応える。なのにワタシ達が店を出ていこうとするとまたまたまたひきとめるのだ。

何がなんだかよく判らないけれど、ともかく7-UPに問題があるらしかったので、妹と2人、あきらめて店の前の地面にぺったりとお尻をついて残りを飲んだ。

 そして又HOTELを探しに出かけた。

歩いていると道行く若者が何か妙な物を持っている。それは、茶色い液体の入った、縁日の金魚を入れたビニール袋みたいな物だ。

しばらくして、それはビニール袋に入れられたコーラである事が判った。

道行く人は皆、ビニール袋の中に清涼飲料水を入れ、まるで縁日の金魚の袋みたいな状態にして、それにストローを差し、そして何故かみんなビニールの紐を小指の第一関節に掛けて、そして手の平を上にしたポーズでそれを飲んでいた。

それで、あのお店のおばちゃんのビニールブクロのナゾが解けた。

おばちゃんは『7-UPを持って行くならこのビニールブクロに移して持って行け』とワタシ達に伝えたかったのだ。

そう言えばワタシが子どもの頃、醤油のビンとかサイダーのビンとか持って行くとお店のおばちゃんが5円とか10円とか小銭を返してくれる、「ビン代」っていうのがあったなあ、というコトを思い出した。

後に、東南アジアの人、特にタイの人はこの「ブラスティックバッグ」と呼ばれるビニールブクロに恐らくなんでもかんでも──ごはんからスープ、カキ氷まで──入れてしまうというコトを知るのであるが、思えばこの『7-UP事件』は、ワタシがその習慣に初めて触れた出来事で、他にも色々な『初めて』のエピソードが凝縮されている事件(?)となっている。

「ビン代」方式(最近ではデポジット方式なんて洒落た言い方をするらしいが)は、ビンをリサイクルするので環境に良いと最近日本でも見直されているらしいが、タイの様に、こうビニール袋を乱用をしてしまっては、意味が無い気がする。

こちらでは、ガラスのビンは予想以上に高価なのだろうか?

(その後、印度で飲んだぶどうのジュースのビンが気に入って、「ビン代」を払ってそのビンを買おうとした所、瓶が中身の飲み物よりも10倍も20倍もするコトを知り、タイではそれ程高く無いのかもしれないけれど、どうやらガラスのビンは大切な物であるらしいことが判った。)

後編につづく・・・後編はこちら。