*ある年の年末年始−旅の日記から−*
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 1992年のお正月、ワタシはシンガポールで迎えていました。本人の記憶によると、クリスマスはマレーシアの小さなカソリック教会におじゃまして、年越しはシンガポールのゴーカなカソリック教会で過ごした・・・筈なのですが、今日記を明けてみると、結構どたばたしてたみたいです(^_^;)
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31.DEC.91

 30日、バトパハ(マレーシア)をヒッチで抜ける。1回目はオンボロのフォードで印度系マレー人の若い男の子。ドアはぎしぎし、ワイパーは動かない。つるんでる友人のビートルは走りながらエンジンオイルを撒き散らし、彼、話しかけると、すーっと路肩に寄って行ってしまう。

 次に拾ってくれたのは華僑の男性でサミュエル・ホイのテープをかけながら(注:サミュエル・ホイ=許傑冠・香港のシンガーソングライター。でも、本当にサムの唄がかかっていたかは不明。おそらくそれっぽい人のテープだと思う。)彼の話だとスピード違反と“はみ出し禁止”は300R(リンゲ・マレーシアのお金の単位。当時エアログラム1R、サトウキビのジュース0.2R、石鹸1.3R)の罰金だけれど、ポリスにポケット20Rのお茶代でノープレブレム、very easyだよと言っていた。その時はとてもニコニコしていた。

 前回に引き続きしごくスムーズにヒッチで国境の街、ジョホールバルに着く。ジョホールバルではお茶代をふっかけられ5R跳ね上がり、雨もちらほらだったけれど、無事ごはんを食べてお茶を飲み。マレーの国境を抜け「ジョホール水道」を歩いて抜ける。

 「ジョホール水道」は、マレーシアとシンガポールを繋ぐ水道管で、その上は長い長い橋になっている。シンガポールはマレーから水を引いて買っているのだ。人々は物価の安いマレーに住んで、物価の高いシンガポールに働きに出ている。その為、毎日通勤するのに国が違うから毎日朝晩イミグレーションを通らなければならない。その為、橋の上はいつも渋滞して車の廃棄ガスでけぶっている。

 「ジョホール水道」を渡る方法はバス、車、鉄道といくつかあるが、ワタシはあえて徒歩を選んだ。暑い国の夕暮れに排気ガスがよどんでいる。

 橋の手前で出国手続きをすませ、いよいよその1km近くの橋を渡っていると、なんとその国境の橋の上でマレー人のおじちゃんがバイクでアイスを売っているではないか!!迷わずコッペパンにとうきびアイスをはさんでもらって0.6R(60マレーセント)で買う。

 いくらのんびりしているシンガ・マレー国境と言えど、ここは紛れもなく国境、イミグレーションの中なのだ。そこで商売をしようとは、なんと大胆不敵なオヤジだろう!

 あまりのめずらしさに、同行させていただいているワタシの旅の師匠がカメラを取り出し写真なぞ撮り始めた。のんびりしているワタシ等とはうらはらにおっちゃんしごく落ち着かず、(そりゃそうだ)きょろきょろと、ワタシにおつりを渡すと一目散に反対側へ走り出してしまった。

 彼は今度はマレー側に帰る人相手にアイスを売るのだろう。おっちゃんのバイクの屋台は白いけぶりを吐いて国境の端を逆送して行った。うーんすごい。すごすぎる。

 橋を渡りシンガポールのイミグレーションを抜け、市バスを待つ。
きちんと待合いのポールが立っているのにバスが来るとみな平気で柵をくぐり押し合いへし合いで圧倒されて乗りそびれる。シンガポール・・・クリーンで英国ムードが売り物だけれど、しょせん中華社会か。

 おまけにバスは1時間も来ない。やっとバスを降り「VIPゲストハウス」に宿を決める。(VIPと言ってもベッドはドミトリーと言って一部屋に二段ベッドが蚕棚の様に詰め込まれている方式。ベッドルームは男女一緒。ここの宿屋はベッド数に対してトイレが極端に少なく、300人以上で2コ。オマケに旅先で出来た白人さんの即席カップルがプライベートを求めてトイレ兼シャワールームに閉じこもったりするから本当、ワタシはおモラシ寸前まで追い込まれた記憶がある。)

 ここではバリから来たという日本人のばりっばりイケイケお姉さんの二人組に出逢い、彼女らの機関銃の様な質問責めとパワーにおされへとへとになって床に就くと、師匠がお尻に蕁麻疹が出来たという。

 ワタシは寝苦しいので夜中シャワーを浴びてベッドにもどると彼は又、蕁麻疹が増えたというので、キッチンに出てみる(ベッドルームはどこでも大抵10時か11には消灯してしまう。)となるほど、それは全身にある。彼は蕁麻疹だと言うが、発疹は躰の露出部分のみだし、ワタシは蚤かダニを疑った。

 蕁麻疹だと言い張っていた彼だったが、はたしてペンライトの明かりの下、ベッド上にうごめくのは見まごうかたなき南京虫であった。(注:南京虫・甲虫の一種。“南京の三点喰い”と言って一定の間隔を開けて血を吸う。刺されるとそれはそれはもう、ワタシなぞは腫れ上がって死ぬほど痛痒い。)

 なんとおちんちんまで南京に刺された彼(別に局部を出して寝ていたワケでは無いらしいが)と南京虫に刺されると大変なコトになるワタシとは立腹しながら一晩の床をそれぞれキッチンの床とイスの上に決めたのだった。途中、従業員のオジサンが起きて受付に座ったのでワケを話したが寝ぼけていてまるで聞いてくれない。

 朝、南京虫を更に生け捕りにし、宿側と交渉し、ついに殺虫スプレーを買ってもらい師匠が散布した。

全く酷い年の暮れぢゃあ、あーりませんか。

 又、一人日本人男性のKさんという人が同室になり、彼は定時制高校の先生という。竹中直人とワタシの友人を混ぜたような愉快な人で、ごはんをご一緒する。その後Kさんと分かれて師匠とマーライイオンを見てG・P・O(本局)へ。

 (G・P・Oではポストレスタントと言って、局止まりの手紙を預かってくれる制度がある。旅先では次の目的地のG・P・O宛てに手紙などを送ってもらって連絡を取る)1つしか名前の載っていない預かりリストを見てガッカリしていたら、なんと名前別に(手紙が)分かれていた。(ポストレスタントの手紙というのは、郵便局の人が自分宛の手紙を出して来てくれるか、さもなければ、大抵は手紙の束をばさっと渡されて、その中から自分が自分宛のモノを探し出す、と言うのが通常だ。)

 ちょうど係の人が私宛のYちゃんからの手紙を分けている所だった。
手紙を読んでエアログラムを買い、師匠はスーパーへ、ワタシはAIU(保険会社)へ。(ワタシは香港で病気になり多大な医療費が掛かった。ところが香港ではその費用をAIUが支払ってくれず、自分で立て替えてたのだ。その支払い分をシンガポールで受け取れないか問い合わせていたのだが・・・)はたしてAIUで無事シンガポール$479を受け取り、最寄りの病院を見学しへとへとになりながら宿屋へ。

 宿屋へ帰ると師匠が心配して待ってくれていた。又Kさんと3人でフルーツ麺をたらふく食べ、ワタシはイスでうとうと。2人は旅の話しに真剣になっていた。

 今日は大晦日。Kさんが「あと5分だね」と言った。ワタシは「え?まだ11時でしょ?」というと「あと5分で日本はお正月だよ。」と言った。

 あと5分で日本は平成4年・・・

 師匠が外に出ようと誘ってくれたのだが、ワタシはこの日記を書いてから行くと言う。ああ、年の暮れらしく、イロイロ処理し、忙しく、マンガも描けずに(旅先でワタシはよく“旅マンガ”を描いていたのです。多分その続きを描きたかったのに保険の請求やらなにやらで描けなかったのでしょう。)この日記を終える。

日本時間平成4年1月1日

あけましておめでたう!!
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 日記はここまでです。もしかしたらこの後、シンガポールのカソリック教会に行ったのかもしれません。
 教会はすごい熱気でみんな熱狂的に賛美歌を唄っていました。少し遅れて行ったワタシ達はあれよあれよと押されてとうとう最前列に座らされてしまいました。信者でもないワタシ達は後ろの方から、ただこっそりと見学させて頂こうと思っていただけなのですが・・・
 隣のおじさんなどは年越しの際、感極まって涙まで流しそーなイキオイで、そのあまりの集団トランスぶりに乗っかれず惜しく恥ずかしいコトをしました。
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 それでは皆様、良いお年をお迎え下さいませ・・・
1999年12月27日ちはる。(^-^)/