* 燕京の瞬(やんきょんのとき) *
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 ワタシは、映画が好きだ。しかし、TVで視ると、どうやらでたらめの電磁波や超音波のせいらしい、映画の中盤で、どうにも具合が悪くなるので、映画館で観るのが好い。

あの、おしろいをはたいたようなフィルムの肌理が、眼にはやさしく、そして、心には鮮明に、色が入るのが何とも不思議でいい。

ワタシは、中国の映画をあまり知らないが、香港に滞在している時「紅提灯高高掛」(邦題、紅夢)というのを観た。詳しいことは分からないが、それは日中合同作成の映画で、いわゆる中国の京劇風の映画では無く、クロサワ映画を思い出させるような作品だった。

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銀幕の中には、中国の古い大きな、そして立派なお屋敷が、効果音(おと)も無いのに空気の動きが聞こえてきそうに素晴らしく、しみじみと長回しで撮られていた。その映画を劇場で観ながらワタシは、香港の熱気の中で、一刻別の世界に完全に入りこんでしまった。

その映画は、人民がまだ、「平等」になる前、ある大金持ちの老人のお屋敷で繰り広げられる、老人のめとった4人の妻を巡る人間模様が描かれていた。

1番目の妻は、本妻であり、もう、おばあさんと呼ばれてもおかしくない。2番目の妻は、母のような中年で、按摩が得意。3人目の妻は、妖艶な大人の婦で、その歌声は、広いお屋敷いっぱいに響きわたる。

4人目は、”中国の百恵ちゃん”と呼ばれる人気の新人が主役を務め、物語は、そのまだ幼い少女が、貧しい農村からそのお屋敷に買われて来るところから始まる。

4人には、各自屋敷の敷地内にある離れを与えられ、夕暮になると妻達はみな、その各家の前に立ち、今夜の御夜とぎが主人から発表されるのを待つ。そして老人が、声高にその日の妻を発表すると、選ばれた妻の家の戸口には、大きな紅い提灯が置かれるのだった。

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 ところで、誰でも日頃暮らしている中で、映画のひとこまの様な、不思議な場面に出くわすことがあるだろう。

香港を出国(でた)ワタシはタイに飛び、そこからは陸路でタイ、マレー、シンガポール、インドネシアと、インド支那を渡るのであるが、マレーシアのペナン島という所で利用した華僑旅舎(在マレーシアや中華系マレー人の経営する宿屋)は、築100年の大きな、屋根瓦の美しい、まるで彼の映画のお屋敷の様な所だった。

中でも、吹き抜けの二階から見える中庭は絶品で、そこだけセピアカラーの銀幕を観るように、空気の粒子は眼にやさしく、無い音が眼から入ってくるように見えた。

ワタシは飽きもせずその吹き抜けの広い二階のフロアの木製のカウチで、人の肩に手を掛けなければ立つことも出来ない昔の中国のお姫さまよろしく日がな一日その様をながめた。

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 ある日、部屋で昼寝をしていると、女の人の唄声が響いてくる。その声が余りに大胆に吹き抜け一杯に広がっていくのでワタシは、その声につられるように、その唄の別のパートをかぶせながら吹き抜けの広間に出て行った。

声は、あの中庭の方からする。覗くと、普段は映画の長回しの場面の様にひっそりと見える中庭が、動いて見えた。「彼女」は、その中庭を見事に生かしていた。

その様は、さながら香港で観たあの中国映画で2番目の妻がお屋敷の庭で唄いありく様に、その映画の場面を流すべく彼女は優雅に唄ってみせていた。

その非凡な場面を前にし、ワタシは一瞬平静を失いかけた。

自分が誰なのか、今は何時なのか、何処に居るのか、一体足は、下に付いているのか、上に漂っているのか、解らなくなった。

こんなことは、その旅行中には何度も体験したことで、その時のワタシの旅行の、円の持ち出し金額は、10万円で、ユーラシア、インド支那、オセアニアと、約2年弱を過ごしたのだから、その旅では心も体もひどく使った。

旅の場面のそこかしこで、ワタシは随分つかれていた。

それが極限に達したのは丁度半年目位で、そこからは、いわば疲労の飽和状態とも云える様な状態が続き、その狂気の日々の中では、よくじぶんを肯定する事柄が、おかしくなった。

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・・・これは現実なのだろうか?

「彼女」は、見事な長い黒髪の、中国人のようだった。彼女は、ワタシを見つめながら唄いおわると、「今、そっちへいくわ、」と指で合図し、中庭の魔法を解いて階段を上がって来た。

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 彼女は、やはり、華僑だったか、マレーシアの混血だったか、いいや、あのなめらかな皮膚(はだ)は、中国人のものだった。

ワタシは、彼女と、台詞の様な言葉をかわした。

しかしそれは、先程彼女の彷彿させた格調高い映画のではなく、TVで視るお下げのかつらと紺のセーラー服で演る、例のワンパターンのコントのそれの様だった。このやり取りの不自然さは、二人共、母国語でない語を使っているからなのだろうか。

・・・ワタシは、彼女の見事な黒髪をほめた。ワタシの髪は、赤茶けてて枝毛ばかりだというと、彼女は、その美しさの秘密を教えてくれた。ひとつの国につき、一つの唄を覚えるのだという彼女は、日本の唄も知っており、ワタシに「昴」を唄って聞かせてくれた。

ワタシたちは、明治のお嬢さんの様に、オンナノコらしい会話を楽しんだ。実際、アジアを旅行をしていると、女性と話す機会は、極端にへずられる。些細なことで、黄色い声を揚げたりするののタブーな国にあっては、なおさらで、話し方は、自然抑揚の無い、落ち着いたものとなる。

彼女との会話は、ああ、そうだった、そうだった。以前は、何処何処のケーキが美味しいとか、この髪飾りが素敵、だとか、そんなことが、話の中での重要なことだったっけなあ。なんて思い出させてくれる物だった。

そんなだから、久々の”娘らしい会話”が、芝居がかって感じるのも無理からぬ事なのやも知れぬ。

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 わたしたちが、きゃーきゃーと話していると、そこへワタシの旅の師匠が通りかかった。

彼は、日本人であるが、もう日本を出国(でて)から10年にもなり、その関西訛りのゆっくりとした語り口からは、頭のなかで考えた英語の文章を自分の卿(くに)の言葉に変えてから喋っている様が見て取れた。

印度のサドゥーの瞳とYHらしい向学心を合わせ持って放浪する彼は文句無しに”旅の強者”だった。ワタシはその人から色々の旅の心得をならった。

その彼が、その大きな眼で会釈しながらワタシたちの所へやって来た。すると唄姫は、

「もう、いかなくっちゃ」

とそそくさと退いてしまった。もっと、話していたかったのに。もしかしたら彼女に気を遣わせてしまったのだろうか?

・・・華を失ってしまったワタシは、彼に彼女の実家が街の方にあるらしいことや、彼女の唄が独学で身につけた物であること、彼女の美しい黒髪のこと等を、興奮気味に師匠に語った。

その一連の話をワタシの旅の師匠はふんふんと聞き、間の手にワタシにこう告げた。

 「彼は、男だよ。」と。

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・・・ペナン島に夕暮がさしかかると、その亜熱帯の街は、にわかに起きだして、そぞろ、さざめく。

光を扱う為に夜行性の仲間入りをした人間どもが、昼間の太陽を逃れ、活動を始める。1日がもう一度始まったかのように。昼と夜の入り交じる不思議の空にはモスリムのがなるアザーンが木霊し、華僑は、線香をたく。ヒンドゥーの寺では、けたたましく甲高い金が鳴らされる。

マレーシアの国教は、モスリムであり、マレーのネイティブはほとんどがモスリムであった。本土の住人は、モスリムのマレー人と、そして華僑が大多数をしめていた。

──本土で見たマレーの女達も又、当然モスリムの女がするように皆スカーフでその髪のすべてを覆っていた。しかし、流石に南国、それは中東のそれの様にストリクトで暗くはなく、女たちは華やいでいた。美しい布からいきなり出てくるような顔は、還ってヌーディッシュで、その大きな黒い瞳は、脚まるだしの華僑の女の子達よりも妖艶に見えた。──

しかし、ここペナンでは、もっと雑多に人間が住んでいる。アラブ人街で、(中国)元を、ルピーに替え、中華街をぶらつき、印度人街で、印度風わんこそばならぬカレーの食べ放題に寄り、マレーのおばちゃんの揚げるバナナのてんぷら、ピサンゴリンをデザートにできた。

夕暮に幕開ける宗教合戦は、N.Y.なんかよりもずうっと雑多で、エネルギシュで、喧騒甚だしく、でものんびりしている。そのゆったりとした悠久の時間と空間の中で、人と、太陽と、地熱の熱気で空気がたわんでいるような。その喧騒がよるを呼び込んでいるかの様な。

そらでは、呼び込まれたあおと、あかと、やみと、たいようとが混沌と混じり入り、そのそらに負けじと街には灯がともり、そうしてくるしくなったそらがふぅっと夜の吐息を吐き出し、振り返ると通りにはもう縁がたち並んでおり、道には、西の、東の、食べ物と人があふれる。

まるでここからが1日の始まりだと言う様に。昼はゴロゴロしている肉食獣が、やおら歩き出す様に。よるはゆっくりと地面からわき上がって来て、人々の体温とからまって「夜」になってゆく。

・・・およそここにはなんでもある。インド系のお兄さんの焼く、不思議な食べ物、ロッティチャナイ、華僑の職人肌の、でも人の良いおじちゃんの、たいやき風鉄板から出てくるおかし、ぱんじゃんくぉい、レスラーみたいな強面の中国系のやさしい3兄弟が、連携 プレーで瞬く間に包んでくれる焼きそば。

かき氷、印度菓子。東南アジアの夜は、小さな街でも、かならず市がたつ。特に、タイや、マレーの夜店は、食べ物であふれ、旅するものの心を、休ませてくれる。

その屋台通りから1本辻を違えて宿屋街に入ると、白熱燈のオレンジ色の光の下(もと)に女がたち、男を乗せたリクシャ(人力車、日本侵略の爪痕、今でも、マレーの自転車で引っ張る人力車についているブリキのまるい登録票には、Noの上にJINRIKISYAと入っている。)は、彼女等の誰かを拾い、宿屋に消えていく。

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 宿屋に戻ると、従業員のおじさんたちが、店仕舞いに取り掛かっていた。この、古くて大きい燕京旅舎には、沢山の人が働いていて、それは、華僑のお爺さんに近いおじさんも多かった。

彼らは、仕事が終わって、門を閉めると、1階の吹き抜けの下のフロアに、竹で編んだ、日本のおじいちゃんがよく夕涼みに使う様な床机を出してきて、そこで夏掛けの1枚も掛けずに寝る。朝になると又、それを片付けて、玄関を開け、又吹き抜けの下を、せわしなく行ったり、来たりする。

そのおじ(い)さんたちの行き来にクロスして、彼女達が、裸の身体に女性がするように、バスタオルを胸まで巻き、髪をピンで上げ、脇にホースを抱えて歩いていく。共同マンディー(東南アジア式風呂兼御不浄)に行くのだ。

安宿というのは、何処の国でもたいがいそうであるが、出稼者や、長期滞在者のアパート代りになる。この、素晴らしく風情のある燕京旅舎も例外ではなく、ワタシのような、若いくせにふらふらしている旅行者や、中東からの出稼ぎ者も巣くっており、彼女等も又、かたまって生活しているようだった。

燕京で閉口したのは、パキスタン系の人達が、マンディーの使い方を誤り、体に浴びる溜め水を、洗面器の様に使い、そこを垢で一杯にしてしまうことだった。

その為にも、彼女たちのホースというアイテムは、便利だった。荷物になるので持たなかったが、東南アジアに踏み込んですぐ、ワタシもお風呂用に、ビニールホースを買おうと思った。外国人女性にとって、マンディーでのホースは、活用的である。それは、かつては男性であった彼女等にとっても同じの様である。

 そんな燕京の1階フロアの何時もの行き来を、今日もワタシは二階のカウチから覗いている。実際、この宿屋は、のんびりしていて、何時も気を張ってなければならない海外旅行の中で、随分と気持ちが楽な所だった。

ワタシは、カウチに掛けて寝るでもなく、起きるでもなく、うらうらと、時間をかけて、香港で観たあの中国映画を想いだしていた。

 老人は、新しい若いつま、4番目の妻(妾)ばかりを、指名する。それにまだまだ若い2、3番目の妾は、嫉妬し、色々に主人の気を引こうとする。

美声の3番目の妻は、屋根の上、その広いお屋敷中に轟く声で、しろいスクリーンの中、一晩中歩き、唄い続けていた。

その声は、どこまでも美しく恐ろしかった。

ワタシは、その恍惚とした、狂気にもとれる美しい白い顔、そしてその唄声の響き渡るお屋敷の玉砂利や瓦屋根を目蓋の裏に観ながら何度もその美しさを反芻していた。

そして、あの日以来会うこともない彼の唄姫の、その声で又、燕京のひっそりとたたずむ中庭に色を差し、活動となってその画面を流出させてくれるのを、その声の響いてくるのを、何時までも待った。