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ふぁいるでーた

風をあつめて。〜旅行記編〜その01・横浜のにじ


通しNo .01001
〜なはなし
〜のはなし
旅・せかい
せかい
旅全般・旅行記「ダラ」
〜のころ
入学前
すなふきん(前半)
とき '92 7月-'92 10月
メルマガ配送日
 2002/07/29号


風をあつめて。〜旅行記編〜その01・横浜のにじ

*このお話しは続き物(連載)です*
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<1991年7月30日 故郷→有楽町>

一九九一年七月三十日、春から通い出した高等看護学校(*01)が夏休みに入って三日目、私は横浜から船(*02)に乗った。行き先はとりあえず上海。そして北京。

でも本当の所は「とりあえず上海」になるか否かはまだハッキリとは決めていなかった。

一足先に、今月の二日に旅立った恋人にも今日上海へ向かう旨は伝えてある。

ホントは彼は一人旅のつもりで旅立ったのだが、私は彼の後を追いたかった、その旅が何年になるか分からないけど、私も旅に出たいとこころから願っていたのだ。

朝、関東平野の片隅の、地方衛星都市にある最寄りの駅まで親友に送ってもらい、二人で駅前のドーナツ屋に入ってげんをかついだ。このドーナツ屋は私が初めて外国に行った時偶然入った店で、「その時飛行機が落ちなかったから」と言う理由から、旅立つ前の、他人から見たら奇妙な私の恒例行事になっている。

彼女は中学の時からの親友で、偶然親同士も同級生、高校、就職先は別だったけど相談もしてないのに示し合わせた様にお互い信用組合で、それは別の信組だったけど研修や行事は県信連でやるから就職早々、新人研修も一緒に熱海、という奇妙なご縁で結ばれて?いる。

ワタシは彼女には何かとお世話になっていて、得に母と妹が家を出てからはワタシが風邪をひくとよく看病に来てくれていた。そして何よりワタシのこうした神経質でくだらないげんかつぎにもよくつきあってくれる、面倒見の良いコだ。

だから当時のワタシはかなり彼女に甘えていて、本当の家族よりも「身内」という感覚があったから、彼女はその時もう既に結婚してて今思うと随分迷惑だったと思うのだけれど、旅行中の連絡先も彼女のとこにして、少しばかりだがお金と本も預けていた。

確か二年前、ケニア旅行(*03)に行く時もワタシはこうやって彼女にこの駅まで送ってもらっていた。彼女はケニアから帰って来た時もここに来てくれて、その時は駅前に車を停めてわざわざ改札まで出迎えてくれた。そしてそこで二人、半泣きで抱き合って私の「無事な帰国」を喜んだ。

一九八九年当時、田舎に住む女の子にとって世界旅行に行く、という事は、それ位覚悟のいる突拍子も無い事だったのだ。

外国に一人で行った、というだけですごいアバズレみたいに思って下の軽い女の子だろうと誤解する男の人までいた位だ。安保当時の持ってるだけで不良だの過激派だのと言われたエレキギターみたいなもんなのか?

彼女と分かれ、快速に乗って上野へ出、そこからあらかじめ調べてあった有楽町の病院へ行って狂犬病の予防接種を受けてイエローカード(*04)をつくってもらった。

持っていた車は付属病院で働く鍼灸師の友人に預けたし、十日ほど前には、わざわざ東京まで出かけて行って綿のロープやら懐中電灯やらも調達して、ケニアの時知り合った仲間に壮行会まだして頂いた。

船の切符は片道しか用意してないし、お守り代わりの米キャッシュ$100紙幣とありったけのカネで米T/Cも用意した(*05)し北京の鍼灸師の先生の連絡先も持って来た。

私は彼が旅立った次の日に一回目のコレラの予防接種を受けている。そして次の週には二回目を打ち、それよりも先駆けて先月には破トキ(*06)を打っていて、コレラ二回目終了の次の週には二度目の破トキ摂取をしている。

要するに、私は夏休み前から長期旅行に旅立つ準備を着々としていたのだ。

一応、今通っている看護学校に休学届けは出したがアッサリ担任の段階ではねのけられた。審議にかけてももらえなかった。

勿論、外国へ行く許可も取ってない。本当は学生が夏休みに長期旅行に出かける際には学校へ届け出をしなければならないことになってはいるが、今更、だった。

どうせ門限だの車通学禁止だの、学則なんて守ってやしない、休学がダメなら辞めてしまったってかまやしない、実際辞める覚悟でリュックを背負ったのだ。

でも、こころのどこかで、「何食わぬ顔をして二学期の始業式に出たっていいんだよ」と自分を言い聞かせる様に思っていたし説得もしていたと思う。実際用意できたカネも親友に預けた分を含めてたった二十万だったし。

どう考えても夏休み一月分の旅費じゃないか?二年は帰ってこないであろう彼を追いかけるにしては少なすぎる。

でもやってることは全くのうらはらで、恩師に手紙を書いて永の別れをしたためたり、友人から餞別をもらったりしていた。私も私を知る人も、私は当分日本へは帰って来ないと思っていた。

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つづき:<1991年7月30日 有楽町→大桟橋>


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