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ふぁいるでーた

風をあつめて。〜旅行記編〜その05・横浜のにじ


通しNo .01005
〜なはなし
〜のはなし
旅・せかい
せかい
旅全般・旅行記「ダラ」
〜のころ
すなふきん(前半)
とき '92 7月-'92 10月
メルマガ配送日
 2002/08/07号


風をあつめて。〜旅行記編〜その05・横浜のにじ

*このお話しは続き物(連載)です*
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<197X年X月 X小(回想)>

ところで帰国後、「よく、あんなに(長い間)行ってたね」とか「よくそんな無銭旅行が出来たね」とか言われのだけれど、確かに旅はしんどかったけどその日々を続ける事が(幸か不幸か)出来てしまったのは、多分、私にとって旅先も日本での生活も、基本的にはさして変わりが無かったからじゃあないだろか。

実際、それまでだって私は家らしい家も無く、いつも家財道具を持ちあるってさまよっていたのだ。

私が物心ついた時にはもう家はそんな状態で、母の話では母が新婚旅行から帰って来た時に祖母に家に入れてもらえなかったというから、我が家の家庭不和の歴史は既にその時点でスタートしていたのだろう。

実際祖母の父に対する想いは尋常ではなく、家父長制という大義名分の元、私も母もいつも祖母に阻まれ、殆ど父とは家族らしい状態になった事がなかった。

祖母にしてみたら私等母子は父につきまとう父や祖母とは縁もゆかりもない身よりのない乞食の親子の様なもので、家においておくだけでも我慢ならない存在で、実際母も私も女中以下の扱いを受けていた。

まぁ育った環境がそんなだったからか、はたまた普段から戦争や災害の恐ろしい話を母から繰り返し聞かされていた為か、私は(今でも基本的にはあんま変わってないけど)明朗なのに酷く神経質、という子どもだった。

幼稚園の時には当時流行っていた「日本沈没」の夢や巨大な火の玉に追いかけられる夢(*09)にうなされ、

学校へ上がってからは「大地震が来る」という本の影響で一時はとうとう「地震ノイローゼ」──それはこうしている内にも大地震が来て母と死に別れてしまうんじゃないかと思い込んでオカシクなり、日常生活がままならなくなるというものだった──に陥っていた事もあった。

その為かどうか分からないけど、私はかなり小さな頃から「サバイバル」ということを意識していた。字が読める様になってからは忍者の本や冒険の本を読んでは水の見つけ方や野営の仕方を学んだ。

小学校三年生頃には野営のごっこ遊びをしていた。

小学校のお休み時間は、確か十分休みと二十分休みとがあって、私は今がどっちの休み時間か間違えない様に「短い休み時間と長い休み時間が一回置きだ」と覚えていたんだれども、

でも考えてみたら小学校のコマは多くて午前中四コマ、午後二コマなんだから「長い休み時間」は二時間目終了後だけだったんだ、と今頃気付いた。

その「長い休み時間」と昼休みの給食を食べた後、私は三年生の新しい組替えで仲良くなった恐らくクラス一綺麗でイケてる女の子と「旅」という遊びをしていた。

「旅」と名付けたのもその遊びをしようと言い出したのも私だが、多分当時は「サバイバル」ということばを知らなかったから適当にそれっぽい様な名前をつけたんだと思う。

仲良し二人で校庭の隅で、校舎の目立たない死角に隠れる様に小さな二つの砂の山をつくって指の長さ程しかない、細い二股の小枝を砂に指して地面に立ててそれが主柱。それに物干し竿の要領で左右の枝に小枝を渡す。その下にも小枝を何本か差し入れる、

たったそれだけの材料がいつも二人を流浪の世界へといざなった。

二人の夢の世界は無限に広がって、渡した枝には飯ごうが下がり、その中には研いだ米が、小枝は薪となって火が燃えさかり、二人は一緒にあてもなく野宿をしながら生きていた。

そして山で尼になったり海で海女になったり色んな事件があったり色んな方法で食料を調達したりしながらひたすら流離う。そんな遊びだった。

「旅」の最初にはまず、必ずその小さな飯ごう炊飯用のかまど(のつもり)を作った。だから今思うとそれはおままごとの延長と見てとれなくもないが、

その世界にはいつも乾いた風が吹いていて、少女の遊びにしてはどこかもの悲しく、退廃的だった。

そんな二人の「放浪の旅」は結構長く続いた。私がその後いじめに合うまで、二人は透明な飯ごうやらお茶碗やらを持って二時間目休みと昼休みの度、色んな土地を移動しつづけた。

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つづき:<1991年7月30日 鑑真>


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