* シ ロ ー ト 考 え ・ 後 編 *
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つづきモノです。
前日から読んでね。

 例えば、深夜に異種格闘技の試合なんか見てて、選手がふたり、団子状態になってどっちかが押さえ込まれてるのを見ても、一体どっちが技を掛けててどっちがキいてるのかすら、一向にワタシなんかにはわからない。

 予備校もそうだ。

 高校生の時、友達につれられて「カリスマ予備校教師」の授業を見に行ったけど(せめて、講義を受けたって書けよ^^;)その先生の何処がイイのか一向にワタシにはワカラナイ。中年のオヤジがマイクを持ち、大きな声で何か言い散らしてるだけだ。その後、何年も経って、ワタシは大学受験でその先生にお世話になる訳だが、その時は涙して聞いた講義もやっぱり当時は何だかワカラナかった。

 そうした各分野で培われる「その世界のコト」がわかんないとフツー意味がわかんないし、価値もわかんない。鉄道マニアにはヨダレもんでも、ワタシにとっては只の「電車の写真」なのだ。「特急トキ」の写真は。

 でも、何か自分がやろうと思い立った時、まず自分一人でまったくナニも無いトコロから始めるとすると、そのうち四苦八苦して、イロイロ文献を調べたり、人から聞いたりする。そのウチに、「その道」を知り、結局はそのノウハウや、セオリーって類のモノをなぞることになる。過去にある方法をまず修めて、それから新しいコトを編み出してゆく、といった方法になってゆく。

 それにしたって結構骨が折れる。第一、過去のモノを修得するだけだって、タイヘンだ。それだけで手一杯になってゆく。そうこうしているウチにちょびっとそのスジの「事情通」になって来ると、今までくだらん、と思っていたことが凄いことだと判ったり、価値のあるものになって来たり、ちょっと得意になったりする。んで、そんな時期(ころ)にこんなコトを言われると・・・


 ある日、母がワタシに「ちゃあちゃん、二カ国語放送ってナニ?」と訊くので、ワタシは丁度やってた二カ国語放送番組を英語にして見せてやった。

 すると母はいたく喜んでくれて、驚きを表現しながら、全く新しいモノの「何か」を見るようにTVを視ていた。

 その内、番組がとぎれてCMになると、彼女は子どもの様なカオで

「なぁに、ちゃあちゃん、やめちゃうん、はやくCMも英語にしとくれよぉ。この、日本のCMが英語で視るとどーなるか見てみたいん。」
キラ\(め▽め)/キラッ

 ・・・シロート考えの中にこそ自由な発想がある。

・・・なんてオモッてしまう。
 でもそれは自分がちょっと「専門バカ」になってしまっているせいだ。

 そんな時は自分(の研究や思考)が世の中の感覚からちょびっと逸脱しかけていると警告しよう。んで、ど素人だった頃の自分を思いだしてみよう。

 ほら、そもそも自分が「何がしたかった」のか、その“自由な発想”が見えてくる。