* 旅の、ことば。“伝わる”編 *
(メールマガジンでお届けに上がる商品のほんの一例です。)
文部省が日本の英語教育を変えようと一生懸命だ。

ポイントは今までの『「読める、書ける」英語教育から「話せる」英会話教育へ』。

既に会話に重点を置いた授業も施行されていて、日本人の先生が下手くそな英語で生徒に話しかける映像などもTVで視た。

ワタシも、旅に出る前は日本の英語教育をバカにしていた。

というかワタシの場合は「侵略の言語」とも言える英語を習うのがイヤ

(ワタシ個人的にはすぐお隣の国である中国語を学びたかったので、ぶしつけに外国語=英語の授業をやらなければならないというのに腹が立ったというのもあって、まぁ、早い話反抗期だったんでしょう(^_^;))

で、中、高の英語の授業をボイコットしていたからちょっとニュアンスが違うかもしれないけれども、でも『「英語」を習っても英語を話せる様になる訳では無い』という事実に疑問を持っていない訳ではなかった。

しかし例の旅(については『ダラ』のプロローグ?をご覧下さい)を終えて日本に帰って来てからは、日本の英語教育の目的がどうあれ、「日本の英語教育って結構良いじゃん、結構どころじゃない、すげ〜イケてるよ」と思う様になっていた。

自分の中学の教科書を見直したり、ラジオの「基礎英語」を(初めて)聴いてみたりしたのだが、どれも教材として使いやすく段階をおって英語が学べるしくみになっていて、とても素晴らしい。(しかも只!)

現行の、いや、戦後の(戦前の英語教育については調べた事がないので)中学3年間の英語教育をきっちりとやっていれば、もし外国で生活する事になってもワタシは全く支障は無いのではないかと思う。

-----
例の旅の途中、インドネシアでワタシはすっかんぴんになってしまい、ウブの宿屋(については『ウブの人達〜前編〜』)で「ん〜手っ取り早く外貨を稼げる所はないかにゃ〜」と地図を広げていた。

その時、インドネシアの島々にほど近い所にある、デッカイ大陸がワタシの目止まった。

オーストラリア・・・・・『メン・アット・ワーク』(バンドの名前)の国か!!い〜じゃんい〜じゃん!オーストラリア!するとこの国は英語か。『ダウンアンダー』(メン・アット・ワークのヒット曲)は英語だったもんな。よし!

ワタシは基本的に現地のことばは現地で覚えて、なるべくそれを使う様にしていたのだが、今回はなにしろ(もぐりで)働こうというのだから、ちょっと位は事前に現地のことばを覚えていった方が良いだろうと思ったのだ。

で、ワタシが始めた初めての「英語の勉強」は、旅の師匠から『ビートルズ』のテープとウォークマンのパチもんを借りて聴くコトだったっ・・・ていうかそれだけ(^_^;)。

そんなだったから、勿論、ワタシは豪州に入国(はい)るまで、全然英語というモノを知らなかった。

動詞の活用なんて勿論知らない。現地で初めて日本の観光客の人にそれを教わった時は「はぁ〜なんかかけ算九九みたいだな〜」と感心したものだ。

動詞の活用どころのハナシでは無い。「I my me」だってよく知らなかった。そうそう、「her」という言い方を知らずに『shis』と言う、「she」と「his」を合体させた単語をいつの間にやら自分で編み出して使っていた位だった。

そんなんでも何故かワタシは豪州入国1、2週間後には個人経営の小さな小さなオパールショップで働いていた。そしてその後サインライターを経て(自慢ぽいかもしれないが)レザーブティックでビジネスビザの申請をする迄になったのだ。(結局就労ビザは手続きの途中イロイロあってお断りしてしまった。)

そんなこんなが可能だったコトの第一条件は、なんと言ってもワタシが滞在していた所の東豪州の人達が、みなおおらかで気が優しく、のんびり屋さんだったコト(なにしろ彼らは“ダウンアンダー”(下の下)の中でも特に“東のヤツら”とひとからげでバカにされてしまう田舎モノである。でもそれ以上に田舎モノのワタシはそんな彼らが大好きだ。)と、もう一つワタシは英語は出来なかったが、相手が『何を言っているのか』察しが付いたからだと思う。

最初に働いた、オパールショップのギリシア人のおじいさんに近いオジサンは、面接の際、「君の英語力が心配だから、1日だけテストとして働いてもらう。」と言った。

それでワタシは1日、そのオヤジに看板を外に出してくれと言われて看板を出したり、窓を拭いといてくれと言われて窓を拭いたりして店番をした。

テストは良好、オヤジは「何にも心配ない」とワタシを雇ってくれた。

ところが、ワタシはその時英語が聞き取れたり話せたりしていた訳ではなかった。先に書いた通り、只、『何を言っているか解った』だけなのだ。

・・・旅をしているとそういうカンがすごく冴えてくる。

だいたい、ヒアリングは誰でも2ヶ月位その国に居れば自然と出来る様になると言われている。しかし、旅の強者になると、だいたい2、3日もすればその国のことばがキャッチ出来る様になると言う。

スゴイ人になると、初めての国に入国(はい)って、わずか2、3時間で大体のヒアリングが出来てしまう、という人もいた。

ワタシはそれ程の達人では無いけれど、それまでの旅の経験から、しばらく滞在すれば何語でも大体相手が何を言っているのか位は検討がつくくらいにはなっていた。

そうして聞き取れたフレーズを、今度は自分で使ってみる。調子が出て来たらそのフレーズを適当に切り剥ぎして自分で使ってみる。そんな風にしながらいつも外国語(というか日常の簡単なやりとり)を覚えていたのだ。

日常生活はそれで十分だった。オパールショップで働くのもNO問題だった。

ワタシは東豪州で職を得、家も借り、市場で買い物をして楽しく暮らしていた。

しかし日常生活の中でも、政治の話しとかちょっと突っ込んだ話題になったとたん、語彙が少ないばっかりに思うように自分の考えが言えなくなってしまってクヤシイ思いもした。

特に、米国人の人は英語が出来ないと相手をバカだと思うフシがあって、その上短気で人のハナシを根気よく聞こうという姿勢が無い人が多く、尚更シャクだった。

その点、大学受験を乗り越えて来た、“学生さん”(“長期旅行者”の間では、大学生の短期旅行者のコトをこんな風に呼んでいました。このことについても後日書いてみたいです・・・)の人達は違った。

外国で出会った沢山の日本の“学生さん”(この場合は主に“ワーキングホリデー”で滞在している人達)を観察していると、確かに、ヒアリングが出来る様になる迄はワタシよりずっと時間がかかっていた様だったのだけれど、いざ、ことばがキャッチ出来る様になったとたん、豊富なボキャブラリーと構文力でどんどん自分の考えを英語で話す事が出来るのようになって行ったのだ。

ワタシの様に、相手の言ったフレーズをそのまま使って自分のコトを表現しようとするのとはワケが違う。聞き取れるようになった『その後の延び』が断然チガウのだ。

ところが、近年日本の内外から「英語を習っているのに英語を話せないとは何事だ、この教育は間違えている」という声が次第に強くなって、イロイロにカリキュラムも変わって来ているみたいだけど、ワタシは全くそんなコトは無い、従来通りの勉強法だって十分通用するよ、いやむしろ「会話」したい人程きちっとやっといた方がいいよ、と思うのだ。

ホントに「ヒアリングはその国に行けば誰でも2ヶ月で出来るようになる」し、「聞き取りが出来る様になった後は語彙と構文を知っている方が英語力が伸びる」、というコトをワタシは自分の体験として知っているので、趣味で英会話スクールに通う人はともかく、義務教育の教室で基本的には日本語しか話せない先生が、わざわざ下手糞な英語で子どもに話しかけたりしてまで『英会話』にこだわる必要が、一体何処にあるのかね〜?って気が正直するワケです。

そんな授業を受け続けたら、シンガポールの子どもみたいに変な英語しか話せない子が育ちそうでコワい。(シンガポールでは、英語を使った学校に入学した方が社会的に有利な為、中国語しか話せない両親が、家庭内で無理矢理英語だけを使って子どもを育てたりしている為、中国語が使えず、変わりにヘンな英語を使う子がすごくいるのだそうだ。)

大体、日本にいてそんなに英語を話す機会っていうか流暢に話せないと困る場面なんて、あるのかなぁ?

留学の人は会話はともかく、まず英文が読み書き出来なきゃお話になんないだろうし、会話は何度も言う様に現地に行けば何とかなるし、その為のカリキュラムもあるだろうし・・・日本にいる外国人の人と話す場合も、基本的にはこっちが相手に合わせてやってるんだからこっちが下手でも何でも相手はモンク言えないだろうしなぁ。まぁ、自分がカッコ悪いっていうのはあるだろうけれど。

それに例え外国だって、そしてどんな場面だって、シビアなビジネスのハナシでも無い限り、そんな流暢に話せなくたって(一部の人を除いて)外国の人だってちょっと位、いやすっごく外国語が下手糞でも、ワタシ達の話そうとする事をしごく一生懸命聞いてくれようとするだろしなぁ。だってワタシ達だって外国の人が何か一生懸命話日本語で話そうとしてたら、一生懸命聞こうとするだろうし。そりゃどこでもそうだろ。

ことばの他にも「通じ合う」手段は絵だって文字だってあるんだし、身振り手振りだってあるし、大抵のハナシは時間をかければ「通じる」モノなんじゃないのかなあ・・・『伝えたいコトを真心を込めて話せばきっと通じる。』それは外国語でも日本語でも、ワタシはそうだと思うんだけどなぁ。

むしろ悪口なんか、ことば全然わかんなくても何故か解っちゃうしなぁ(^_^;)。お互い。

そもそも、『会話に重点を置いた教育=べらべら話せる』と考えるのはあまりに安直だとワタシは思うんだけど。

外国の人、特にヨーロッパの人はしごく議論好きで、若い人でもみんな政治の話しや地域の問題に感心を持っている様で、きっかけがあるといつでも何処でも議論の花が咲く。

日本では「話してもつまんないだろうな」と遠慮しがちな話題でも、ヨーロッパの人に話すとすごく盛り上がるのでワタシも、正直驚くコトがある。(日本でウッカリそのノリで話すと大変なコトになる。(^_^;))

又、「これこれこうだ」と自分の考えを述べて、相手がそれとは反対意見だったとしても、「ワタシはこれこれこう思う」ときちんと応えてくれる。

そういった双方向の「会話」が、時と場所を選ばず何処でも成立する、という事は、彼らが常日頃から色々な事に興味と感心を持ち、そしてそれについて『自分はどう考えるか』というコトを一通り頭の中で考えてまとめておく、いわば「会話」の下準備とも言える作業を無意識にしているからなんだと思う。

そんな『下準備』にも通じて行く様な、勉強なり学習をするコトの方が口先だけで外国語を話せる様になるコトよりも、よっぽど大切な事だとワタシは思うんだけどなぁ。

かく言うワタシも、恥ずかしながら旅先で外国の人からアイヌのコトや沖縄のコトを質問されて、ことばが解らないのではなく、あまりにも自分が無知である故にことばを足せない、という場面を何度と無く経験した。

外国の人の方が自分の国のコトを良く知っているなんて、とっても恥ずかし(*^_^*)かったよ。

ワタシがお世話になった小論文の先生が、以前「小論文が書けないと悩んでいる受験生は沢山います。しかし、書きたいことが書きたいように書けない、と悩んでいる人は本当に少なく、大抵は自分の述べたい事が見つからないのです。」と言っておられたコトがあった。

日本語でも話せ無いコトを、いわんや外国語で(^_^;)。

先に書いた、2、3時間で現地のことばを聞き取れる様になってしまう、という旅の仲間が旅先でワタシにこんなハナシを聞かせてくれました。

旅の途中ある所で、その人は一人のお坊さんに出会ったのだそうです。

驚いた事にそのお坊さんは色んな国のことばを、だいたい10カ国語位話せたので、自分も多少は語学に自信があったが、上には上がいるものだといたく感心して、

「何でそんなに色々外国語が話せる様になったのですか」

と訊ねた所、そのお坊さんはこう答えたそうです。

「伝えたい事があるからです。

伝えたい事があればことばは覚えられます。」

-----
『話したい事がなければ話せない。』

当たり前ですがそれはどんなに流暢に英語が話せても、そうなのです。