*大阪万博1/3〜昔の子ども〜
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 ええと、ワタシ実は“万博”行ったコトあるんです。2つかそこらのハナシなんですが。

 ええ、かの“大阪の万博”です。(ご存じ無い方はどうぞ。オフィシャルじゃないけど・・・)

 ワタシはわりかし小さい頃のコトを覚えているんですが、その記憶は保育園の頃のモノから始まっていて、ワタシは2つの頃から、ええと、具体的に言うと「オムツが取れたので」“ソレッ”とばかりに保育園に入れられたワケです。自営業だったので、いたしかたアリマセン。

 当時は、小さい頃から保育園に入れられるのは“カワイソウ”と思われていたらしいのですが、どっこい、本人は保育園、大好きでした。

 保育園に行けば、好きなだけ画用紙に“お絵かき”出来るし(家庭では広告紙の裏の白いのを閉じたのと、子どもの指の第一関節も無い位のチビたクレヨン−それはビニール袋に沢山ぐちゃぐちゃに放り込んであって、その為、もう何の色なんだか見分けも付かない位真っ黒になったヤツ−を使わされていました。)、“お友達”もいるし(ワタシの近所には年の近い子どもがいませんでした。)そしてなにしろ、保育園にいれば「仕事をしなくて良い」ワケですから、パラダイスでした。

 良く、保育園の門の所で送りに来たお母さんと離れたくなくてぎゃぁぎゃぁ泣いている“お友達”がいましたが、一体、彼らが何故あんなに嘆くのか、ワタシには皆目検討が付かないという状態でした。

 しかし・・・こうして考えると、昔の子どもは良く働かせられましたよね。

 ワタシは保育園に上がる頃には「庭掃き」三歳にはもう「お使い」「洗濯」(しかも“すすぎ”は祖母のポリシーで手でしていました。)「夕食のお手伝い」、幼稚園入学前日からは、包丁を仕込まれおさんどんもしていました。

 高ぼうき(竹ぼうき)は自分の背よりも高くてとても扱いにくく、手での洗濯は流し台が自分の背より高かったので全身びっしょりでした。包丁は手が小さく柄の所が持ちきれず、包丁の背の所を持って覚えたので未だにワタシはそこを持ってしまいます。

 我が家は自営業の上、ちょっと古いので、同世代の子どもよりもワタシは若干“おしん”
が高いかもしれませんが、まぁ、昔の子どもは労働力のひとつだったということは確かでしょう。(そのせいか、オムツが取れるのも早かったような?)

 登校拒否の子どもの話なんかを聞くと「家で労働させりゃーいいんじゃないか」、なんて安易に考えちまいます。(^^;)教育専攻ですのに、イケナイですよね〜・・・ははは。(^^;)

 我が家では未だに勉強は道楽の一種みたいに思われていて、ワタシの大学進学も両親はあんまり、喜んでくれなかったんです。(^^;)ちょっと、とほほ。

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